公理
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公理(こうり、Axiom)とは、学問を構築する上で前提とされる命題のこと。
議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系という。
以下にいくつかの公理の例を示す。
- 命題 P が成立するなら、命題「PまたはQ」も成立する。
- 2つの点が与えられたとき、その2点を通るような直線を引くことができる(ユークリッド原論を参照)。
- a=b なら、a+c = b+cである(ユークリッド原論を参照)。
- どんな自然数に対しても、その数の「次の」自然数が存在する(ペアノの公理を参照)。
- どんなものも含まないような集合(空集合)が存在する(公理的集合論を参照)。
- 集合 S の元のうち、ある条件 P(x) を満たすような x だけをとって集合を作ることができる(公理的集合論を参照)。
公理を用いて証明される命題は定理という。 以下に定理の例を示す。
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[編集] 公理の必要性
「数学は何でもかんでも証明する学問である」という良く知られた意見は嘘を含んでいる。 AはBから証明でき、BはCから証明でき、CはDから証明でき…と原因をさかのぼっていくとき、どこまでも無限にさかのぼる事はできない。 なぜなら人間は有限時間しか生きる事ができないので、無限に長い証明を全て読む事はできないからである。(有限の立場)。
この為さかのぼるのをどこかであきらめ、幾つかの命題を無批判に認めざるをえない。 この無批判に認める命題が「公理」である。
[編集] 歴史
「有限の立場」が明確に認識されたのは20世紀初頭だが、数学者達はそれ以前から公理の必要性に気づいていた。 公理の概念が明確に記述された、現存する最初の文書はユークリッドの原論という紀元前300年頃にギリシアで書かれた書物である。
原論には以下の5つの公理が挙げられている:
- 点と点を直線で結ぶ事ができる
- 線分を延長して直線にできる
- 一点を中心にして任意の半径の円を描く事ができる。
- 全ての直角は等しい(角度である)
- 直線が 2 直線に交わり、同じ側の内角の和を 2 直角より小さくするならば、この 2直線は限りなく延長されると、2 直角より小さい角のある側において交わる。(平行線公理、第五公理)。
第五公理は「平行線の錯角は等しい」という命題と同値である事が知られているので平行線公理ともいう。
(注:ユークリッドはこれら5つに「公理」という言葉を用いず「公準」という言葉を用いており、他の命題を「公理」を記している。しかし現在の視点から見れば「公理」と「公準」とは同一概念で、為に現在では「公準」という言葉は使われない)。
これらの公理の中で最後の平行線公理は他の公理ほど自明ではない。 この為平行線公理は他の4つの公理から導けるのではないか?という疑問が生じた(平行線問題)。
しかし平行線問題は後にガウス、ボリアイ、ロバチェフスキー等が双曲幾何学という、最初の4つの公理は満たすのに平行線公理のみは満たさない幾何学的対象を発見した事で否定的に解決される。 もし最初の4つの公理から平行線公理が導けるのであればこのような幾何学は存在するはずがなく、よって平行線公理は他の4つの公理からは導けないのである。
双曲幾何学のように最初の4つの公理は満たすが平行線公理のみは満たさない幾何学を非ユークリッド幾何学といい、平行線公理も満たす幾何学をユークリッド幾何学という。
ユークリッドの時代には数学というものは本質的に一つしかないと素朴に考えられていた。 しかし双曲幾何学の発見により、互いに矛盾する様々な数学が存在し、それぞれの数学の基礎となる互いに矛盾する様々な公理系が存在する事が分かった。
[編集] 近代数学における公理
さらに時代が下り、ヒルベルト等が数学を形式的にとらえ直し、同時に公理の概念も形式化した。 現在の数学では公理とは記号で書かれたただの論理式にすぎない。その論理式から単なる記号操作で得られる論理式が定理であるととらえられている。
近代数学では実際の点、直線、平面は数学で扱う「点」、「直線」、「平面」とは(似てはいるものの)無関係で、 公理という論理式を満たす無定義な記号列であり、それ以上でもそれ以下でもない。 実際の点、直線、平面は数学で扱う「点」、「直線」、「平面」の意味(セマンティックス)を知るには役に立つが、 公理という論理式(シンタックス(文法))を満たす記号に過ぎない数学の「点」、「直線」、「平面」とは別物だと考える。 例えば数学で扱う「直線」の太さは0であるが、実際にはそんな直線は存在しない。
数学で扱う「点」、「直線」、「平面」は公理を満たす単なる記号にすぎないので、理屈の上では別の記号を用いてもよい。 例えばヒルベルトは『「点」とか「直線」とか「平面」といった用語を使って公理を記述するのは感傷的歴史的理由に過ぎず、代わりに「ビールジョッキ」や「机」や「椅子」という用語を使ってもよい』という趣旨の発言をしている。
この為「公理は論理式にすぎない」という考え方を「ビールジョッキ思想」と呼ぶ事がある。
この置き換えを行うと例えば「2直線は1点で交わる」という命題は「2つの机は1つのビールジョッキで交わる」という、みかけ上全く意味の無い命題になるが満たしている論理式は置き換え前と同じものなので頓着しない。 これは丁度「2(x+y)=2x+2y」という命題の「x」と「y」を「u」と「v」に置き換えて「2(u+v)=2u+2v」としても数式としては差位がないのと似ている。
実際の点、直線、平面が数学で扱う「点」、「直線」、「平面」とは別物であるという考えは、後に数理モデルの考え方を生んだ。 例えば経済数学では金、株、財産など数式化して経済法則を探る。 この際出てくる「金」、「株」、「財産」等は「数理モデル」と呼ばれるもので、あくまでたんなる数字にすぎず、実際の金、株、財産とは別物である。 経済数学に出てくる「金」、「株」、「財産」は数字なので紙幣や株券といった実態を持たない。 経済数学で扱うのは数理モデル版の「金」、「株」、「財産」であるので、 経済数学で得られた成果が実際の金、株、財産の性質とはずれてしまう事もありうる。
ビールジョッキ思想に違和感を覚える人は作家であり論理学者であるルイス・キャロルの書いた鏡の国のアリスの登場人物ハンプティ・ダンプティを思い起こしてみると良い。 ルイス・キャロルは「言葉はその発言者が言葉に与えようと思った意味以上の意味も以下の意味ももたない」という言葉を残したが、 ハンプティ・ダンプティはキャロルのこの言葉に忠実に従い、勝手に新しい単語を作ったり、既存の単語を別の意味に用いたりして主人公のアリスを混乱させる。 つまりハンプティ・ダンプティは英語ならぬ「ハンプティ・ダンプティ語」を作ってそれを話しているのである。
ビールジョッキ思想もこれに似ている。 「点」、「直線」、「平面」は日本語であるが、ビールジョッキ思想ではこれを「ビールジョッキ」、「机」、「椅子」に置き換えた「ビールジョッキ語」を作っているのである。 日本人のほとんどは日本語を話すのに対しビールジョッキ語を話している民族はいないので、日本語の方がビールジョッキ語よりもコミュニケーション・ツールとしては優れている。 しかし純粋に論理的に言えば日本語とビールジョッキ語のどちらが偉いわけでもない。 これは英語と日本語のどちらが偉いわけでもなく、異なる言語であるに過ぎないのと同じである。 よってビールジョッキ思想では日本語で記述した数学とビールジョッキ語で記述した数学を等価だと考える。
日本語で「点」、「直線」、「平面」と言って数学を構築しても英語で「Point」、「Line」、「Plain」と言って数学を構築しても同じものができあがる。 同様にビールジョッキ語で数学を構築しても同じだとビールジョッキ思想では考えるのである。
[編集] 公理の直観的歴史的妥当性
公理は記号で書かれたただの論理式の集まりなので、理屈の上ではナンセンスな公理のもとに全く意味の無い数学理論を構築してもよい。 しかし現実的には誰もナンセンスな公理系に興味を持たないので、何らかの直観的歴史的意味がある公理系のみを研究対象とする。
だがどういう公理系が「直観的歴史的意味がある」ものであるのかについては必ずしも数学者全員の合意が得られているとは限らない。 多くの数学者達は同じ公理のもと成立する数学を研究しているが、数学基礎論を研究している研究者の中にはあえて普通とは違う公理を研究する人々もいる。
例えば直観主義論理学では排中律を認めない。 排中律とは任意の命題Aに対し「Aまたはnot Aが成立する」という公理で、ようするに「真偽はYesかNoかだけ。中間は認めない」という趣旨の公理である。 通常の数学では排中律を認めるが、直観主義論理学者達は「YesともNoとも判断できない」という中間状態を認めた数学体系を研究する。
無限がからむ公理に関しては「直観的歴史的意味がある」かどうか意見が割れやすい。 特に選択公理という公理を認めるべきかどうかには大いに疑問がある。 これは「無限個の(空でない)集合列から一個ずつ元を選ぶ事ができる」という趣旨の公理である。 選択公理を認めても認めなくても(その否定を認めても)数学は矛盾しないので、理屈の上では選択公理を認める数学、認めない数学、否定を認める数学の3通りを作る事ができる。
選択公理を認めると様々な「成り立って欲しい性質」(例えば代数的閉包の存在性)が証明できるので、ほとんどの数学者は選択公理を認めた数学体系を研究している。 しかし数学基礎論を研究している数学者の中にはそうでない数学体系を研究している人もいる。 これは選択公理が「無限回の選択」を許す公理なのに対し彼らが『(選択公理を認めても論理的には矛盾しないかも知れないが)、「無限回選択」する事は有限時間の寿命しかない我々にはできないので、できもしないものを公理として認めると無意味な数学ができてしまう』と考えている為である。
実際、選択公理を認めてしまうと一見直観に反する性質すらも証明できてしまう(バナッハ・タルスキの逆理)。
[編集] ヒルベルト・プログラム
ヒルベルトは、公理系は次を満たしているべきだと考えた。
- 健全性(無矛盾性)
- 証明可能な命題は全て「正し」く、公理間に矛盾がない。
- 独立性
- ある公理が、他の公理を使って導き出せたりはしないこと。つまり、いかなる公理も「余分なもの」ではないこと。
- 完全性
- 「正しい」命題は全て証明可能であること。
(「正しい」とは何かを説明するのはかなり難しいのでここでは省略する)。
なお、公理がただの論理式なのと同様、「矛盾」というのもただの記号に過ぎない。 「⊥」という記号を「矛盾」と解釈し、記号操作によって「⊥」が導けるときは矛盾しているのだととらえ、そうでないときは矛盾していないととらえる。
そしてヒルベルトは公理系がこの3条件を満たしているかどうかを判定する方法はないだろうかと考えた(ヒルベルト・プログラム)。 しかし「普通の数学」(自然数論)の公理が完全性を満たさない事をゲーデルが示した(不完全性定理)のでこの計画は潰えた。
[編集] 関連項目
- 形式主義
- 公理的集合論
- ダフィット・ヒルベルト
- ヒルベルト・プログラム
- 演繹
- 科学哲学