佐久間盛次
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佐久間 盛次(さくま もりつぐ)は戦国時代の武将。佐久間久六盛重(桶狭間の戦いの前哨戦で丸根砦を守って討ち死にした佐久間大学允盛重とは同族で同名だが別人)の子。久六、久右衛門を名乗った。
佐久間信盛は従弟にあたる。
はじめ織田信行方の配下であったが、のちに信行の兄の織田信長に仕える。犬山城主であったとの記録がある。 弘治3年(1557年)の名塚城攻めに信盛と共に信長方として参加した。
その後も箕作城攻め、勝竜寺城攻め(いずれも永禄11年(1568年))などに参加した記録があるが、その後の記録がなく、このころに亡くなったのではないかと推測されるが、詳細は不明。
四人の男子があり、長男盛政は柴田勝家に従い北陸地方を転戦、尾山城主となったが、賤ヶ岳の戦いに敗れ刑死した。次男安政は保田知宗の養子となり、後に佐久間姓に復して信濃国飯山3万石の藩主となった。三男勝政は柴田勝家の養子となった。四男勝之は佐々成政の婿養子となり、後に佐久間姓に復して信濃国長沼藩1万8000石の藩主となった。
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