金沢城
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金沢城菱櫓 | |
通称 |
尾山城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 |
佐久間盛政 |
築城年 |
1580年 |
主な改修者 |
前田利家・利長 |
主な城主 |
佐久間氏、前田氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存長屋・門、石垣 |
金沢城(かなざわじょう)は、現在の石川県金沢市丸の内にあった戦国時代・江戸時代の城郭。加賀藩主前田氏の居城。金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれ、小立野台地の先端に位置している。
目次 |
[編集] 歴史
- 1546年 前身となる、空堀や柵などを備えた城作りの寺院尾山御坊(金沢御堂)が建設され、加賀一向一揆で加賀国の支配権を得た本願寺の拠点となった。
- 1580年 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が天正11年4月28日(1583年6月14日)に入城し、尾山城と改称した。
- 1587年 伴天連追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が前田利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った。しかし、尾山城の名称は結局なじまず、金沢城に再び改称されたのがこの頃だと言われる。
- 1592年 利家の子前田利長が再び改造を行った。
- 金沢城はこの後も、1759年の宝暦の大火などでたびたび火災に遭った。
- 1875年 陸軍第7連隊が金沢城址に置かれた。
- 1881年 火災で石川門と三十間長屋を残して焼失
- 1898年 陸軍第九師団司令部が金沢城址に置かれ、第二次世界大戦が終わるまで存続した。
- 1949年 戦後新設された金沢大学のキャンパスとして使われた。
- 1995年 金沢大学が郊外に移転。
- 2001年 跡地に菱櫓・橋詰門・橋詰門続櫓・五十間長屋が復元され金沢城址公園として整備されたが、その後すぐに金沢城公園と改称された。
[編集] 構造
典型的な平山城で、櫓を多用した構造になっている。また、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とした。天守は再建されなかった。 あまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵(仮想敵は越前松平家である)を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。そのうちのひとつ、妙立寺(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとされる。
[編集] 堀
城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)が存在した。現存するのは大手堀のみで、他の三つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになった。このうち、いもり堀は復元作業が続けられている。
白鳥堀は、歩行者・自転車専用の白鳥路(はくちょうろ)として、市民の散策路になっている。百間堀は、広坂交差点と兼六園下交差点を結ぶ百間堀通り(百万石通りの一部)となっており、幹線道路の一部に転用されている。これを渡るように兼六園から石川門にかかる石川橋は、当時は百間堀に架けられていたものである。
この他、城内には内堀が、城外には東西の内外計4本の惣構堀(そうがまえぼり)が掘られていた。惣構堀は後に用水路として転用されている部分が多い。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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