伴善男
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伴善男(とものよしお、弘仁2年(811年)~貞観10年(868年))は平安時代前期の貴族。伴国道の五男。伴中庸の父。伴大納言。
父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされる。(『日本三代実録』によると國道は805年に恩赦されて京に帰っており京で出生したという説、また善男は元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説(『宇治拾遺物語』など)がある)
※大伴氏は823年に淳和天皇の名が大伴であったので、それを避けて伴氏と改姓した。
生まれつき爽俊で、また狡猾で、黠児(わるがしこい男)であったとされる。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯矮小、傲岸で人とうちとけなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。
830年に校書殿の官人になり、仁明天皇の知遇を受ける。841年、大内記。842年、蔵人、式部大丞。843年、従五位下、讃岐権守、右少弁。
846年、僧善愷(ぜんがい)の裁判事件でと法理を争い、左大弁正躬王(まさみおう)ら5人の弁官を失脚させる。
847年、従五位上、蔵人頭、右中弁。848年、従四位下に昇り、参議に右大弁などを兼ねた。849年、右衛門督、参議、式部大輔を兼ね従四位上に昇る。同年、下野守、検非違使別当を兼ねる。850年、皇太后宮大夫を兼ねる。851年、美作守を兼ねる。853年、正四位下、中宮大夫を兼ねる。854年、讃岐守を兼ねる。855年、従三位に昇る。右大臣藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にたずさわる。
859年、正三位、民部卿。860年、中納言。864年、大納言に昇る。730年に大伴旅人が大納言になって以来のことで、伴氏(大伴氏)の極官をきわめた。
866年閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣源信が犯人であると告発する。源信の邸が包囲される騒ぎになるが、太政大臣藤原良房が清和天皇に奏上して源信は無実となる。8月、応天門の放火は善男とその子中庸らの陰謀とする密告があり、拷問後も犯状否認のまま善男は犯人として断罪され死罪、罪一等を許されて流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた。(応天門の変)
868年、善男は配所の伊豆で没した。