今治藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今治藩(いまばりはん)は、伊予国(愛媛県)北中部と島嶼を領有した藩。藩庁は今治城(今治市)。
目次 |
[編集] 略史
慶長5年(1600年)豊臣時代に伊予国板島(後の宇和島市)で7万石を領有していた藤堂高虎は、関ヶ原の戦いの戦功により20万石に加増された。同時に今治市内にあった国分山城に移り今治藩が立藩した。しかし国分山城は中世山城で城下町造営が不便なため、慶長7年(1602年)今張浦に近世城郭建設と翌年に城下町建設に着手、慶長9年(1604年)現在の今治市街地となる城と城下町が完成した。
高虎は慶長13年(1608年)伊賀国・伊勢国にて22万石に加増の上、領地替えとなり津藩に転出した。しかし、越智郡2万石が残されたので養子である高吉が今治城主となり残った。のち、寛永12年(1635年)伊勢国名張に領地替えとなり藤堂氏の支配は終了した。
同年、伊勢国桑名藩より松平定行が伊予松山藩15万石に転封となり、同時にその弟定房が伊勢長島城7千石より3万石に加増され今治に入った。 寛文5年(1665年)定房は江戸城大御留守居役に任ぜられた。役料として武蔵国・下総国・常陸国から1万石を加増され、4万石となる。 2代定時は嗣子定陳に遺言として、定陳の弟定直に関東領地のうち5千石を分知するよう残した。このため石高は3万5千石となった。元禄11年(1698年)には関東領地5千石が収公となり伊予国内の宇摩郡5千石を代替として与えられた。
藩の財政を支えた産業として塩・白木綿・甘藷等が挙げられる。塩田開発を行い塩を特産とし、また、白木綿の生産を奨励した。
7代定剛は文化2年(1805年)藩校の前身である講書場を構えた。文化4年(1807年)講書場を拡充し藩校・克明館となる。
幕末の10代藩主定法は文久3年(1863年)軍備を洋式に改革し、沿岸に砲台を建造した。また、時勢を積極的に見極めようとし京に長く駐在し、幕府・勤王派の周旋に尽力した。慶応元年(1865年)の第二次長州征伐の際、情勢を見極めた上、朝廷側に付くことを決意した。慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、いち早く京に兵を進め御所の警護を行った。その後も藩兵の一部は官軍として、戊辰戦争では奥州まで転戦した。
今治藩の宗家で隣藩である伊予松山藩が将軍家の親族であることを理由に、鳥羽伏見の戦いまで佐幕を通したこととは大きく異なった。
明治元年(1868年)、太政官布告により松平氏を返上し、菅原姓久松氏に復姓した。
明治4年(1871年)廃藩置県により今治県となった。その後、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。
明治17年(1884年)久松家は子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
[編集] 藤堂(とうどう)家
外様 20万石 (1600年~1608年)
- 高虎(たかとら)〔従四位下、和泉守・左近衛権少将〕
[編集] 松平(まつだいら)〔久松(ひさまつ)〕家
親藩、御家門 3万石→4万石→3万5千石 (1635年~1871年)
- 定房(さだふさ)〔従四位下、美作守・侍従〕3万石→加増により4万石
- 定時(さだとき)〔従五位下、美作守〕
- 定陳(さだのぶ)〔従五位下、駿河守〕分知により3万5千石
- 定基(さだもと)〔従五位下、采女正〕
- 定郷(さださと)〔従五位下、筑後守〕
- 定休(さだやす)〔従五位下、内膳正〕
- 定剛(さだよし)〔従五位下、壱岐守〕
- 定芝(さだしげ)〔従五位下、采女正〕
- 勝道(かつつね)〔従五位下、駿河守〕当初は定保(さだもり)と名乗る
- 定法(さだのり)〔従五位下、壱岐守〕
[編集] 関連項目
- 藩の一覧
- 国分山