松平定直
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松平定直(まつだいら さだなお、万治3年1月19日(1660年2月29日) - 享保5年10月25日(1720年11月24日))は江戸時代の大名。伊予松山藩4代藩主。官位官職は従四位下、隠岐守、侍従。
[編集] 経歴
万治3年(1660年)誕生。実父は今治藩2代藩主松平美作守定時。実母は側室嶺頂院殿平岡氏の女。幼名は鍋之助。延宝2年(1674年)、松山藩主定長の養嗣となり、同年、松山藩藩主に就任。養母は春光院殿京極氏の女。この年に従五位下淡路守に任じられ、その3年後には隠岐守に転じ、従四位下に昇る。
貞享4年(1687年)、藩庁を二ノ丸より三ノ丸に移し、二ノ丸を藩庁別棟(隠居所)とする。宝永元年(1704年)、将軍家世嗣家宣の官位昇進のため、京都御使を命ぜられ侍従に昇進する。京都では東山天皇の拝謁を賜う。翌年、領内では財政難から初めて藩札を発行。その一方で、地坪制度を導入することによって農民負担の均質化をはかり、課税法を検見法から定免法に改めることによって、安定した年貢収入に成功する。文化面では、俳諧にたしなみ、その興隆に貢献した。
元禄15年(1702年)12月15日、赤穂義士47士が彼らの主君浅野内匠頭が討とうとして討てなかった高家吉良上野介の首を主君にかわって討つというあだ討ち事件が発生。定直は、この47士のうち大石主税・堀部安兵衛・木村岡右衛門・中村勘助・菅谷半之丞・千馬三郎兵衛・不破数右衛門・大高源五・貝賀弥左衛門・岡野金右衛門の10士の預かりを命じられた。しかしこの頃、定直は病であり、江戸城に途城できず、家臣を通じてこの命令を受けた。また義士達に会いたがったが、やはり病でまともに会うことができず、家臣たちを通じて自分が病である旨を義士達に伝えている。元禄16年(1702年)1月5日になってようやく義士達と会見した。このとき定直は「自分は前年の冬より貴方達に対面したいと思っていた。しかし病で登城もできない有様で会うことができなかった。だがこのたびの事、自分は心の底から感心している。もっと大歓迎をしたいところだが、貴方達は幕府からのお預かり人であるためこれができない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない。」と述べている。松平家の義士達への厚遇も大石内蔵助を預かった細川綱利に劣らぬものであった。
享保5年(1720年)、江戸松山藩邸三田中屋敷にて卒去。享年61。
法号は大龍院殿前四位拾遺兼隠州刺史観誉喜広聞証大居士。遺骸は三田済海寺で荼毘に付され、遺骨は松山大林寺に葬られた。
[編集] 関連項目
- 伊予松山藩(松平氏4代)
- 1674~1720
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- 先代:
- 松平定長
- 次代:
- 松平定英