人吉城
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人吉城の航空写真 (1976年撮影・国土航空写真) |
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通称 |
繊月城、三日月城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、土塁、復元櫓・塀 |
人吉城(ひとよしじょう)は日本の城。所在地は熊本県人吉市麓町。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、球磨川と胸川を北側と西側の天然の堀とし、東側と南側は山の斜面を天然の城壁とし巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。
幕末に築かれた石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、城壁越えを阻止すると共に非常時には割合簡単に落下させられるようになっており、攻撃にもなるようにしている。この城壁は日本では他には函館の五稜郭しかない珍しいものである。
現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社がある。
[編集] 沿革
源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が城を構え支配する所であった。主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ忙殺した。これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。三の丸には鎮魂の為に「お津賀の社」が建立された(現在は残っていない)。
長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。
戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一し、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573年 - 1593年)より城の大改修が始められた。途中に度々改修の中断があり、22代頼寛の寛永16年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。
戦国時代の相良氏は南の島津氏や北の大友氏などの侵攻に絶えず脅かされる小領主であったがよく耐え、義陽の子・長毎は天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州侵攻の際に領土を安堵された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は西軍に付いたが寝返り、江戸幕府より2万2千石の領地を安堵された。
享和2年(1802年)には城内から出火、文久2年(1862年)2月には城下町の鍛冶屋から出火があり「寅助火事」と呼ばれる大火となった。この2度の火災で城は全焼した。その後、一部の建物が再建された。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。この際に幕末に再建された建造物も全焼した。
その後、城跡は人吉城公園として整備され、昭和36年(1961年)9月2日、国の史跡に指定された。 平成元年(1989年)隅櫓が復元された。平成5年(1993年)には大手門脇多聞櫓と続塀が復元された。