相良長頼
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相良 長頼(さがら ながより、1177年(治承元年)-1254年3月30日(建長6年3月10日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。相良氏の第2代当主。初代当主・相良頼景の子。
通称は相良三郎。1199年、源頼朝の死去に伴って出家する。1205年、畠山重忠誅殺において功を挙げ、それにより肥後国球磨郡の地頭に任じられた。1221年の承久の乱では幕府方として参陣し、宇治川の戦いで敵将・渡部弥次郎兵衛を討ち取るという功績を挙げた。しかし1243年、甥の相良頼重と争ったことを幕府に咎められ、所領の人吉庄のうち、北部を北条氏の領地として取り上げられてしまった。その後、豊後国上毛郡の地頭に任じられている。1254年3月10日、人吉庄にて死去し、後を子の相良頼俊が継いだ。享年78。法号は蓮仏。