ヴァルター・グロピウス
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ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日-1969年7月5日)は、モダニズムを代表するドイツの建築家。近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。バウハウスの創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。
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[編集] 生涯
1883年5月18日、ベルリンに生まれる。カルル・フリードリッヒ・シンケルの弟子であったマルティン・グロピウスの大甥に当たる。
1903-1907年にミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り(1908-1910年)、ドイツ工作連盟にも参加した。1911年の作品、ファグスの靴工場は、後のバウハウス校舎を思わせる初期モダニズム建築であった。1915年、ヴァン・デ・ヴェルデからワイマール(ヴァイマル)の工芸学校を託された。後に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスが初代校長になった。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものであったが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となった。ワイマール・バウハウス校長室のインテリア(1923年)は、モダンデザインによって統一された空間であり、記念碑的作品とされる。
やがてワイマールのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、デッサウ市立バウハウスとなった。デッサウの校舎(1926年)はグロピウスの設計によるもので、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルンク)を建設した(1926-1928年)。グロピウスは1928年に校長を退いた。1930年頃にはベルリンの集合住宅建設に当たった。
バウハウス閉鎖後、1934年イギリスに亡命、1937年、ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計した。
1969年7月5日、マサチューセッツ州ボストンにて86歳で死去。
[編集] 評価
グロピウスが著書『国際建築』で主張した発想がもとになり、1930年代にアメリカで提唱されたインターナショナル・スタイル(国際様式)が生まれた。そのグロピウスの主張とは、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすというものである。グロピウスの手になる1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。
なお、アメリカ移住後のグロピウスの実作品はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に多大な影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミースやSOMの手にゆだねられた。
[編集] その他
- アルマ・マーラーとのスキャンダルでも知られる。