モイセイ・ヴァインベルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
モイセイ・ヴァインベルク(またはミェチスワフ・ワインベルク)(Moisey Samuilovich VainbergまたはMieczyslaw Weinberg ,1919年12月8日 - 1996年2月26日)は、ロシアの作曲家。
ポーランドの首都ワルシャワのユダヤ人の家庭にミェチスワフ・ワインベルク(Mieczyslaw Weinberg)として生まれる。ワルシャワ音楽院で学ぶが、1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻のため、ソヴィエト連邦に亡命。名前をロシア風にモイセイ・ヴァインベルクと改める。ソ連ではドミートリイ・ショスタコーヴィチと親交を結ぶ。しかしスターリンの反ユダヤキャンペーンで1953年に逮捕されるなど、苦難の生涯であった。
目次 |
[編集] 名前
ヴァインベルクにはさまざまな氏名があるため、多くの混乱が生じている。生まれた時はポーランド語で「ミエチスワフ・ヴァインベルク Mieczyslaw Weinberg」であり、姓はドイツ語に由来している。ソ連邦に移ってからは「モイセイ・サムイロヴィチ Moisey Samuilovich」というロシア語の名をつけ、またそこでは「Metek」というあだ名でも知られていた。また「モイシェ Moishe」という名前をソ連のイディッシュ語出版物で使い続けた。ロシアでは彼の名前は当然キリル文字で表記される。それをラテン文字に転写し直すと、「Vainberg」や「Vaynberg」など様々な綴りが生じるのである。ちなみに本来の綴りはグローブ世界音楽大事典の最新版に採用されている。
[編集] 生涯
1919年にワルシャワでユダヤ人の家族に生まれた。父のシュミイル Shmil(またはシュミエル Shmuel)はワルシャワのイディッシュ劇場でヴァイオリン奏者や指揮者を務めていた。家族は元々ベッサラビア出身で、反ユダヤ主義による暴力行為の犠牲者であった。(1903年にキシナウで起こったポグロム(大虐殺)で曽祖父も祖父も殺されている。)12歳の時、ワルシャワ音楽院でピアノを学び、1939年に卒業する。第二次世界大戦が勃発するとソビエトに亡命。(親と妹はワルシャワに残り、Trawniki強制収容所で命を落とした。)ミンスクで過ごし、初めて作曲を学ぶ。その後、タシュケントに移りオペラを書いた。そして、俳優ソロモン・ミホエリスの娘と結婚した。
1943年、ショスタコーヴィチに請われてモスクワに移る。ショスタコーヴィチはヴァインベルクの才能に感心し、親交を深めた。当時まだ若かったヴァインベルクはショスタコーヴィチに多大な影響を受け、後に「生まれ変わったようであった」と語っている。
ミホエリスは1948年にスターリンの戦後の反ユダヤ主義運動の一環として殺される。ヴァインベルクのいくつかの作品は1948年のジダーノフ批判で禁止になり、映画音楽やサーカス音楽の作曲で生計を立てざるを得なくなった。ヴァインベルクは1953年2月に逮捕される。ショスタコーヴィチはラヴレンティ・ベリヤにヴァインベルクの為に仲裁するようにと手紙を書き、またヴァインベルクの妻も逮捕された場合、彼の娘の面倒を見るよう頼んだ。結局のところ、ヴァインベルクは翌月のスターリンの死に救われ、それから間もなく公式に名誉回復がなされた。
その後は作曲とピアノ演奏をしながらモスクワに住み続ける。ショスタコーヴィチとは家が近く、毎日作曲のアイディアを分かち合っていた。ヴァインベルクの作品は、ショスタコーヴィチがしばしば称賛しただけでなく、エミール・ギレリス、レオニード・コーガン、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、クルト・ザンデルリングなどのロシア随一の演奏家にも取り上げられた。
晩年、ヴァインベルクはクローン病にかかり寝たきりの状態になったが、作曲を続けた。1996年1月3日にロシア正教会に改宗し、その直後の2月26日に死去した。
[編集] 作品
主な作品には、22の交響曲、他の管弦楽曲(室内交響曲とシンフォニエッタを含む)、17の弦楽四重奏曲、8つのヴァイオリンソナタ(3つはソロ、5つはピアノを含む)、チェロの為の24の前奏曲、6つのチェロソナタ(4つはソロ、2つはピアノを含む)、6つのピアノソナタ、他の器楽曲、そして多くの映画音楽がある。7つのオペラを書き、そのうち「パサジルカ Passazhirka」(1967-68年)はその中で最も重要な作品とされている。ピアノ五重奏曲やピアノ三重奏曲およびチェロ曲は、最近ではヨーロッパからアメリカのコンサートや音楽祭で演奏されるようになった。イギリスのレコード会社オリンピア・レーベルは15以上のCDを発売している。その音源は、メロディア・レーベルのLPからのリマスタリングと、オリンピア社の独自録音の両方が混じっている。
ヴァインベルクは、しばしば標題的要素の強い音楽を作曲した。生涯を通じて、ワルシャワ時代の人間形成期や、青年期に終止符を打った戦争を思い返すことが常であった。しかしながらこの暗闇は、カタルシスを経て平和を発見する背景として役立っている。このような調和への憧れは、ヴァインベルクの音楽様式においても歴然としている。リュドミラ・ニキーティナはヴァインベルクの作品について、「新古典主義的でいかにも合理主義者らしい明晰さと均斉感」と強調した。
ヴァインベルクはショスタコーヴィチに正式には学ばなかったが、影響を受けていたのは明らかである。はっきりとした両者のつながりのひとつが、「交響曲第5番」終結部のチェレスタのピアニッシモのパッセージである。これはショスタコーヴィチの「交響曲第4番」の名残であり、その初演の時期にヴァインベルクの「第5番」が作曲されたのである。「ピアノ・ソナタ第6番」では、ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」の1作が引用されている。音楽語法においてより全般的な類似点は、旋律の引き伸ばし、主題の反復、極端な音域などの利用である。このことは、ヴァインベルクについて述べられてきた主な批判のひとつとなっている。アレクサンドル・イワシュキンは、ヴァインベルクのような作曲家たちが自分の名声だけでなく、ショスタコーヴィチの名声までを傷つけているとして、次のように述べている。「これらの作品はショスタコーヴィチの音楽を台無しにするだけでなく、数え切れないほどの悪質な亜流の“かさぶた”でもってショスタコーヴィチの音楽を覆い隠してしまう」。
しかしヴァインベルクが影響を受けたのはショスタコーヴィチだけではなかった。プロコフィエフ、ミャスコフスキー、バルトーク、マーラーからも影響を受けていたことがニキーティナによって確認された。一方でトランペット協奏曲は、メンデルスゾーンの有名な「結婚行進曲」が引用されている。当然のようにユダヤの民族音楽がくっきりと目立つが、同時にモルダビア、ポーランド、アルメニアなど、その他の民族的な要素も見つけることができる。ショスタコーヴィチはヴァインベルクと出会ってから、クレズマーの主題に対する興味を増していったが、一部の評論家は、その興味の発端がヴァインベルクであったと見なしている。