ポーランド楽派
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ポーランド楽派(ポーランドがくは)とは、第二次世界大戦後のポーランドの前衛的な現代音楽作曲家の総称。「ポーランド楽派」の定義は論者により異なるが、ここでは上の通り幅広く定義する。
[編集] 戦後第一世代
ポーランド楽派初期を代表する人物とされる作曲家は、ピアニストでもあったヴィトルト・ルトスワフスキである。1913年生まれの彼は既に第二次世界大戦前から創作活動を行い、二台ピアノのための「パガニーニの主題による変奏曲」(1941年)完成時には新古典主義的な独自の書法を完成させていた。この作品はアンジェイ・パヌフニクと作曲者自身のピアノで披露されており、21世紀に入っても高い人気を得ている。
終戦後、ポーランドはソビエト連邦の影響下に置かれ、いわゆる「スターリン時代」の辛酸を嘗める。そのヨシフ・スターリン没後、西側の前衛音楽の吸収に最も積極的に動いた国がポーランドだった。スターリン批判を率先して行った最初のポーランドの作曲家がルトスワフスキである。彼の「葬送音楽」(1954-58年)は西側の前衛音楽への興味が最初に現れ、また公的に発表を許された最初期の作品である。
そのルトスワフスキがポーランド楽派の中心人物とみなされるようになった経緯は、ケージ・ショックをポーランド人では初めて経験し、なおかつ理解したことを示す作品を残したためである。ジョン・ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(1958年)を聞いた彼は、作曲観が180度回転するほどの大ショックを受け、前衛イディオムから生まれる新しい個人様式への渇望を感じるようになった。
彼の個人様式を語る上で欠かせないのが「ad lib.動律」である。作品は五線譜上に通常の定量記譜法で書かれるが、「パート同士の縦の線を合わす必要はない」とされ、指揮者は入りの瞬間のみを提示し、柔軟性に富んだテクスチュアが展開される。このアイデアには、彼が捕虜収容所から数十Kmの逃避行を強いられた過去が反映されている[要出典]。この時期の「ヴェネチアの遊び」、「オーケストラの書」、「チェロ協奏曲」などにこの作風は強く現れている。しかし、1970年代以降はセミクラシック的作風を濃くしてゆく。
戦後、ポーランドで作曲家のホープとされたのはアルトゥール・マラフスキとグラジナ・バツェヴィチであったが、マラフスキが1957年に早逝し、バツェーヴィチがその位置に立つ形となる。彼女の作風は、前衛イディオムを新古典主義への注釈として用いており、その中でも「無伴奏ヴァイオリンソナタ」(1958年)は両者の属性が最高の形で融合した傑作とされる[要出典]。
ポーランド楽派を語る上で欠かせない、音楽史上の大事件はヤニス・クセナキスのデビュー(1954年)である。オーケストラを駆使して生まれる激しいグリッサンド運動、トーン・クラスターの暴力性、数学理論をあくまでも疑似科学の範囲内で援用した彼は、幸運にも一躍時代の寵児となった。賛否両論が渦巻く中、この音響美を積極的に取り入れた作曲家が、次々とポーランドから現れるのである。
クシシュトフ・ペンデレツキは、1950年代末の作曲コンクール入賞独占をきっかけに、ポーランド作曲界のスターとなる。彼はクラスター内の音運動を全廃し、黒色の長方形で描かれる独特の記譜法が有名である。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」は松下眞一の助言でこの題名を付け、ペンデレツキの代表作として再演が重ねられた。その後彼の作品は宗教的な色合いを強めてゆき、前衛の時代には避けられた三和音やオクターブを積極的に取り入れ、「ルカ受難曲」で頂点を迎えた後は次第に典型化してゆく。
1950年代頃のポーランド全体の文化状況は比較的好調で、作曲家の作品はほとんどがポーランド音楽出版(PWM)社から刊行され、その数も膨大であった。その当時のPWM社のディレクターはボグスワフ・シェッフェルであった。シェッフェルは、「音楽とは何か」「何が斬新か」を問いつづけ、「不屈の永久革新性」を問うあまり、ポーランド国内からの脱出を余儀なくされた。当初、ルトスワフスキ、ペンデレツキほどの人気を勝ち得ることはなかったが、前衛の時代に最も貢献したとする見解もある[要出典]。
グループ49の3人、カジミェシュ・セロツキ、タデウシュ・バイルト、ヤン・クレンツは60年代に作風が開花した。作曲家兼ピアニストのセロツキは活動当初から同音連打に拘るなど、音色美志向が顕著であった。ピアノ独奏のための「プレリュード組曲(1952)」のいくつかのシーンが、ポーランド初の十二音技法で作曲された作品であるとされる。そして、彼の作風を決定付けた「ドラマティックストーリー」、「フォルテとピアノ」、「カデンツァ風協奏曲」、「コンティヌーム」他で名声を決定的にした。未知の音響への興味はやがてライヴ・エレクトロニクスの実践へ繋がり、「ピアノフォニー」でクラスター音響がホール中を周回するといった音源の位置への関心を高めてゆく。新古典的書法が復活し、形式感も明解になってゆくが1981年に急逝した。
活動初期にはカロル・シマノフスキに傾倒したバイルトは「ポーランドのアルバン・ベルク」と称されるほどロマンティックな語法への関心が高く、一通り前衛イディオムを学んだ後、「交響曲第三番」、「ゲーテの手紙」、「オーボエ協奏曲」、「明日」で独自の作風を確立する。クラスターを解離音程の絡み合いと解釈した独自の音響美が特徴的である。最終的には叙情的なアダージョと断定的なアレグロの二項対立の様式へ還元されていった。1970年代以降書法が穏健になってゆき、1981年に急逝した。
クレンツは活動当初から指揮者としての活動のほうが顕著であり、初期のポーランド楽派の作品群は全て彼の指揮によって演奏されたといっても過言ではない。近年は作曲活動に復帰しているが、シマノフスキの「仮面劇」をオーケストラ編曲したことで知られている。
ヘンリク・ミコワイ・グレツキは、「交響曲第三番」の世界的大ヒットによって知られているが、これは転向後の作風であり、楽派内で一世を風靡した時期の作品群を詳しく述べる必要がある。活動初期から衝撃音を好む異端の境地にいたが、「交響曲第一番」で特異な音響美学を提示することに成功する。1960年代に作曲された「起源」、「音楽」、「激突」、「コロスI」はいずれも甲斐説宗によって絶賛された。後年は、他の作曲家同様聴衆との乖離に耐えられなかったのか、宗教的及び政治的な側面を強く打ち出すようになる。「交響曲第二番」をピークとして、音響がひ弱くなってゆき、「交響曲第三番」のヒットに繋がってゆくのだが、その作品にもずらしカノンや特定の素材の執拗な反復など、かつての作風を偲ばせる要素がないわけではない。ミコワイ・グレツキと名づけた息子も作曲家である。
ピアニスト兼作曲家のクシシュトフ・メイエルも、楽譜と音源のリリースには比較的恵まれたものの、「交響曲第三番」をピークとして、新古典的様相を色濃くしていった。「弦楽四重奏曲第二番」、「弦楽四重奏曲第三番」、「ポーランドの歌」などを生んだ全盛期には強い表現力を保っていたが、ドミートリイ・ショスタコーヴィチへの傾倒、新ロマン主義の流行を真に受けたことが、作風を回顧的なものへと変えていった。実験色が音楽の表層を覆わないようにする傾向は、初期のポーランド楽派の中ではやや異質であり、一柳慧との類似性が指摘される。
ヴィトルト・シャローネクはセロツキと同じく特殊奏法の探求に熱心であったが、音の内部を顕微鏡で観察するような作風を打ち立てた。「音」の冒頭のピアノの内部奏法の扱い、「ピエルニキアーナ」のチューバへの様々なマウスピースの取り付けなどは、セロツキの効果音的用法とは趣を異にしている。ベルリンへ移住してからは教育活動が中心となったが、晩年は作曲活動に復帰した。2001年に同地で没した。
前衛の時代が終わったとたん、彼らの音響は既に共有ソースになっており、もはや個性的な音響美学でもなんでもなくなっていった。多くの作曲家は、古典的な形式に回顧する傾向が見られる。
彼らは数多い第一次ポーランド楽派のほんの一部に過ぎない。ヴォドジミェルシュ・コトニスキ、マレク・スタホフスキ、ツビニエフ・バルギエルスキ(ズビグニェフ・バルギェルスキ)、レオンチゥシュ・チゥチュラ、ツィグムンド・クラウツェ(ジークムント・クラウゼ、国際現代音楽協会ISCM元総裁)の名前を挙げてもまだ足りないくらいであろう。こうして、ポーランドの現代作曲家達は初めて世界的な認知を得るのである。1947年生まれのヤン・オレシュコヴィツは、その語法を継承して活躍した。直接的、間接的に影響を受けた世界各地の作曲家達は枚挙に暇がない。またソ連崩壊以前のポーランド国内の作曲を学ぶ人々にとっては、国外の近年の動向に接することが十分に出来ないことからも、多大な影響を与えた。
これらの作曲家の名前を冠した「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール」、「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際チェロコンクール」、「ヴィトルト・ルトスワフスキ国際指揮コンクール」、「カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクール」、「タデウシュ・バイルト作曲コンクール(国内限定)」、「クシシュトフ・ペンデレツキ国際室内楽現代音楽演奏コンクール」(現在はペンデレツキが委員長から降りたために、コンクールの名称は変更されている)、「グラジナ・バツェヴィチ国際作曲コンクール(学生及び院生限定)」といったコンクールが開催されている。ヤン・オレシュコヴィツは後年、第2回「カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクール」で第3位相当のZaiks作家協会賞を受賞し、ツィグムンド・クラウツェは現在もセロツキ、バイルト、ルトスワフスキなどの各作曲コンクールの審査委員長や海外主要作曲コンクールの審査員の座にある。
[編集] 戦後第二世代
戦後第二世代の登場は、ジェネレーション51結成を画期とする。三人ともヘンリク・ミコワイ・グレツキ門下生だった。その中、クシャノフスキは1990年に39歳で早逝した。カジミエシ・シコルスキの息子、トマシュ・シコルスキも世代的には前世代に入るものの、ミニマリズムへ積極的な態度を取った点から第二世代と近接する面がある。彼もまた、アルコール中毒のため49歳で1988年に病没した。リディア・チェリンスカやパヴェル・シマヌスキ(パジェウ・シマンスキ)らもこの世代に該当するが、新ロマン主義の流行の中で全体的に折衷的な語法を用いていた為もあって、前世代ほどの知名度には到らなかった。
前世代の遺産を継承して出発したかどうかは、現在も意見がわかれる。グレツキがサクレド・ミニマリズムに転向したり、前世代そのものが前衛的な作曲態度を緩めていったので、世代間の断絶はそれほど起きていないと解する事も可能である。しかし、第二世代には前世代の持つポーランドから音楽言語を世界へばら撒くといった強迫観念のようなものは見当たらず、その点では世代交代とみなすこともできる。
この世代のうち、最も商業的に成功を収めたのはハンナ・クレンティである。また世代の最後尾にはスイス在住のベッティナ・スクルィチャクがいる。
ポーランドでは1971年生まれに活躍する作曲家が集中しており、ここからの世代を戦後第三世代と定義することが可能である。この世代に該当するパウェウ・ミキエティン、マルセル・フィルチンスキ、アガタ・ズベル、ミコワイ・グレツキ(グレツキの息子)、マチィエ・ズウトフスキ、アレクサンドラ・グリカ、ジャクブ・サルワス、カタルツィナ・クウィエチェン、バルトシュ・コワルスキ=バナシェヴィツ、アダム・ファルキエヴィチュ、アンジェイ・クヴェチンスキ、チェザリ・ドゥフノフスキ、グレゴシュ・ドゥフノフスキ、アンジェイ・クヴェチンスキ、ヤチェク・ヴィクトル・アジノヴィチュなどが国際的な認知を受けつつある。
戦後第一世代の「意地でも国際進出」にかける態度は見受けられず、マイペースで作曲を行っている者も多い。国内の業界のみに固執する者と国際展開のために作曲賞を総なめにする者とで、はっきり作風が分かれている。ドミニック・カルスキはオーストラリアに市民権を移したが、ポーランド音楽情報センターは「ポーランドの作曲家」として名鑑に登録している。
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