ボグスワフ・シェッフェル
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ボグスワフ・シェッフェル(Bogusław Schäffer/Schaeffer, 1929年6月6日 -)は、ポーランドの作曲家、演奏家、劇作家、画家、音楽学者。彼より年長のポーランドの作曲家シュテファン・キジエレフスキから「ポーランドの現代音楽の父」と称えられた。
目次 |
[編集] 略歴
1929年に、現在のウクライナ領であるルヴフ(リヴィウ)で生まれる。アルトゥール・マラフスキに作曲を師事、ズチツワフ・ヤヒメッキに音楽学を師事。後年にはルイージ・ノーノにも短期間師事している。17歳から作曲を始め、ヴィトルト・ルトスワフスキ、クシシュトフ・ペンデレツキ、グループ49と並ぶポーランド楽派の中心人物とされる。2006年時点で作曲作品は530作を数える。また44作に及ぶ彼の戯曲は16ヶ国語に翻訳されて国内外で広く上演されている。
長らくポーランド音楽出版(PWM)社で要職に在ったにもかかわらず、1984年以降PWMの看板作曲家ではない。1996年には462ページを要する「シンフォニア/コンチェルト」を一年足らずで書き上げ、2003年5月には、かつての同僚であったサクソフォーン奏者アンジェイ・ルジムコスキと作曲者自身のピアノでデュオリサイタルを開き、そのための作品を全曲新たに書き下ろした。
[編集] 教育
クラクフの音楽アカデミーで教えた後はオーストリアに移住し、モーツァルテウムで作曲の教授を2000年まで務めた。新しい複雑性の継承者となったクラウス・K・ヒューブラーを始め、作曲の弟子は世界中に数多い。
真に新しい前衛作曲家の育成を夢見た彼は、1993年からシュヴァツで「アヴァンギャルド・シュヴァツ」の名を冠した夏期講習を開始し、多くの若手作曲家を指導した。その中には2001年度武満徹作曲賞で第二位を得たパナヨティス・ココラス、カントゥスアンサンブル賞及びショスタコーヴィチ国際作曲コンクール第二位を得たアントニオ・ツィメルマン、ISCMキャッシュ賞およびブザンソン国際作曲コンクール第一位を得たレイレイ・チャン、ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール第一位を得たマリオス・ヨアンノー・エリアなどの名が見られる。「アヴァンギャルド・シュヴァツ」はシュヴァツ市の財政難を理由に2002年から一時中断し、2006年第十回セミナーからアヴァンギャルド・チロルと改称しゼーフェルトで開催されている。セミナー期間中には招待若手作曲家へ一週間強で新曲を書き下ろすノルマを課している。
1999年から2002年にはアンジェイ・パヌフニク国際作曲コンクールの審査員長を務めた。
ポーランド音楽出版社刊『作曲概論』は前衛の時代を隈なく解説した良著として、谷口昭弘 やクンス・シム、ヴァルター・ギーゼラーらに賞賛された。『作曲概論』では自分の生徒と自作を除いて、ポーランドの作曲家の譜例はまったく参照されていないあたりにも反骨精神が伺える。日本語版は1980年代にワルシャワの作曲コンクールに入賞した嶋津武仁が、審査員長の本人と接触した際に贈呈され、翻訳が行われた(未出版)。
[編集] 作風
「不屈の永久革新性」、「未だ汲み尽くされていない可能性」が彼の作曲思想の源泉であり、「明日聴かれる音楽は、今日書かなければならない」(『作曲概論』序文)という信念に従って驚異的ペースで作曲し続けている。創作初期から協奏曲を最も得意としており、ピアノ、ヴァイオリン、サクソフォーンを使ったものが多く、現在もこれらの楽器への情熱は変わっていない。
[編集] 1944-1962年頃の作風
作品リストを立ち上げてからわずか三年でソプラノとオーケストラのための「ギョーム・アポリネールの詩(1949)」を作曲し、すでにこの時点で完璧なエクリチュールを達成した彼は、書式の完成度で得られる音楽ではなく、「音楽とは何か」を問い続ける異端の境地を突き進むことになった。「弦楽のための夜想曲」(1953年)はニコラス・スロニムスキーによってポーランド初の12音技法の作品を生んだと讃えられた(現在ではこの説は否定されている)。「弦楽四重奏のための音楽」(1954年)では微分音の総音程音列の先駆者となり、音符のない作曲(「ピアノ独奏のためのダイアグラムを用いた習作第一番」(1956年)「10楽器のための極限」(1957年))もポーランド人で初めて彼が行った。同時に、1950年代末期から数多くのユニークな記譜法を考案したことでも知られている。
1958年にルイージ・ノーノに師事するためにダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会へ出席した彼は、その地でイヴォンヌ・ロリオ、クロード・エルフェらフランス人のピアニストから好意的に受け取られ、ロリオは「八つの小品」(1958年)、エルフェは「ピアノとオーケストラのための四つの楽章」(1957年、初演は1968年)をそれぞれ世界初演している。前述の「ギョーム・アポリネールの詩」の楽器法は非常にフランス的な光沢が鏤められていたが、ダルムシュタットで受けたノーノのレッスン以後の作風は徐々にドイツ的な楽器法へ転向してゆく。ノーノの指導の影響が最も強く刻印された作品に「ピアノと小オーケストラのためのAzione a due」(1960年)が挙げられる。全パートが図形楽譜で作曲されたこの作品は、ピアノの「点」を各管楽器が「線」にしてゆくコンセプチュアルな作品であり、近藤譲の「線の音楽」で展開される音楽思考を先取りしている。
恐らくこの世代のポーランド人で最もジャズに親しんだ作曲家でもあり、その痕跡は「MJQの為の三つのコンポジション」(1961年)等の作品に聞かれる。この時期は総じて「素材」の拡張に興味が向いており、(後日破棄されたものの)新しい記譜法に全力で取り組むなど、「前衛の中の前衛」の評価をこの時点で確立した。また作品に見られる「衒学性」が多くの聴衆を怖がらせる一方、数は少なくとも熱心な生徒やファンも確実に存在することになった。シェッフェルは「一番弟子のバーバラ・ブチェクが、最も独創的で才能豊かだった」と述べており、再三にわたって彼女に言及している。ブチェクもシェッフェル譲りの緻密なテクスチャーを操れる個性的な作曲家であった。
多くのポーランド楽派初期の作曲家は時間に対する関心が乏しかったのに対し、シェッフェルは活動当初から新しい時間の可能性を探り続けている。三つの作品が交互に入れ替わる「ピアノ独奏のためのポリフォームの習作」(1959年)や「六つの弦楽四重奏のためのモノソナタ」(同年)のクライマックスで見られる四分音符単位で変わる強弱など、響きと時間の強固な関係を探ってもいた。この探求は近年の作品まで脈々と流れており、多くのポーランドの同世代の作曲家と袂を分かつのはこの点である。
1955年には、初めての戯曲「ウェーベルン」を完成した。シェッフェルはすでに当時新進前衛作曲家ではあったが、劇作家とはみなされていなかった。作曲家でも劇作家でもあるという珍しいキャリアをスタートさせた彼の才能は、音楽における『演技』の拡張に繋がってゆく。
[編集] 1963-1982年頃の作風
シェッフェルは即興演奏にも造詣が深く、前衛の時代に最も即興演奏を盛り上げたと評価される[要出典]。ハプニングの実験を追求したこの時期は、「素材」から「演技」の拡張に興味が移った。演奏家の自発性を駆使する「TIS MW2」(1962-63年)は、作曲と劇作双方の知識が用いられ、不条理演劇とハプニングのボーダーに位置する作品と言われる。「四人の俳優のための四重奏」(1966年)は世界的な大ヒット作となりヨーロッパ各国で上演され続けている。ジャズと現代音楽がコンバインされる「コースJ」はアメリカで初演され、ガンサー・シュラーやゲアリー・スマートなどに深い影響を与えている。
「テープと一人の演奏家のためのプロジェクト」(1970年)は複数のヴァージョンが作曲されているが、テープパートはそのままで楽器(か声楽)のパートが複数あり、同時演奏も可能となっている。テープと演奏家の協奏曲風に始まる作品は後半で演奏家によるハプニングが指定されており、このハプニングの出来で大きく作品の印象が変化する。
しかし、彼の創作ペースは前衛の時代が終わると同時に急激に落ち1974年には一作も作曲していない。この時期に『作曲概論』を執筆しているのは、創作活動の集成を企図してたとも解釈できる。「ワルシャワ序曲」(1976年)完成以後は徐々に伝統的な編成や題名に回帰し、造形感覚や音色の点でより格調を高めてゆく姿勢をとった。この時期は音符のないインストラクションやフロー・チャートの作品が最も多く、「音符を書いて思考する」伝統的な基礎を半ば放棄してしまった結果、前衛のスペシャリストであった彼も作曲のやり辛さや窮屈さを感じるようになっていたと考えられる[要出典]。この境地を脱するために彼は次の試みに移った。それは『様式』の拡張であった。
[編集] 1983-1999年頃の作風
Gasabヴァイオリンを開発したきっかけは、スコルダトゥラの煩雑な処理に悩まされた弦楽器奏者を救うためでもあった。この楽器は特殊な音程を容易に出すことができ、なおかつ完全五度を「音楽的に」演奏しやすく設計されている。1980年代には新ロマン主義がもてはやされるが、その流行の裏で彼は調的な「スターバト・マーテル」(1983年)で美しい和声感を伴う新境地を開いていた。スタンドに固定したオーボエと両手に持ったオーボエで三本を同時に吹く試み「SCHPASS」((九重奏、1986年)など、相変わらず実験性は顕著であった。1990年には久しぶりの自作自演となった「ピアノ協奏曲第三番」(1988-90年)でテクノトラックをコンピュータパートに導入し、ピアノと協奏させる試みなど正にシェッフェルの個人語法のデパートのような作品を書き下ろした。
1993年より「アヴァンギャルド・チロル」を開講し、世界中から集う色とりどりの若手作曲家たちからの刺激を受けた彼は、「若手作曲家に課したノルマと同じ条件で、自らも新作を作曲する」謙虚な姿勢を毎年のように見せ、創作意欲が増大する。この努力が実り、110分の「ピッコロヴァイオリンのための主題のない変奏曲」(1993年)、71分の「ピアノのためのメガソナタ」(1994年)、110分の「15人の独奏者とオーケストラのための(シンフォニア/コンチェルト)」(1996年)、80分の「オーケストラのための交響的アダジオ」(1998年)、110分の「交響詩~或る町の一生~」(1999年)など堰を切ったように大作の発表が相次いだ。
この時期の書法の特徴として、「Tacet(ある区間演奏しない楽器)に該当する楽器があらかじめスコアから省かれている」ことが挙げられる。つまり一つのセクションが始まるとその楽器編成で進み、次のセクションまで変更がなくTutti(全体合奏)での咆哮はかなり限定される。つまり最初から作曲に要するラインを15-20段ほど用意しておいて、そのままで書き進める。しかし情報量の稀少を一切感じさせることはなく、高次の密度を伴う対位的労作が繰り広げられる。予め作成された素材表から常に手動で声部が追加されるが、単純なディレイなのかヘテロフォニーなのか判然としない選択を行うことを好むために、一回の聴取では聞き取りにくい音響が繰り広げられることがオーケストラ音楽において多い。アヴァンギャルド・チロルの指導においても‐受講生が選択するかはともかく、より情報量の濃い楽譜を書いて来いと毎年のように命じている。これは明らかに前衛の世代ならではの発想であり、明瞭な聴取を伴った密度で書きたがる戦後世代への露骨な挑発的態度でもある[要出典]。
この時期には作品の版権を全て既存の出版社から引き上げ、自分で自由にレイアウトを組んでポケットスコアで出版するCollsch Editionを自ら設立したことも大きな要因と見られる。彼はどのような作品でもポケットスコア化してしまうために、トロンボーンソロのような作品ですら豆粒のような音符とともにポケットスコアで出版されており、「演奏用のスコアは自分で拡大して使いなさい」という態度である。
この時期は、また形式の拡張にも力を入れている。「三本のオーボエ属を独奏する演奏家とオーケストラのためのオーボエ協奏曲」(1992年)では中間部で五巡パッサカリアに入るが、反復のたびにテンポが異なり、独奏者もオーボエを持ち替えつつ反復のたび異なった独奏パートを演奏する。「(シンフォニア/コンチェルト)」はシンフォニアとコンチェルトがサンドウィッチのように挟まったきわめて珍しい構成をしている。「~或る町の一生~」では「シュヴァツの100年を十年ごとにわけ、全十楽章の作品として作曲されている」ために、第五楽章では戦争を暗示する小太鼓の使用と天から降り注ぐような三人のソプラノの使用がきわめて印象的である。この時期には、最も信頼した片腕ローマン・ハウベンシュトック=ラマティ、最愛の弟子バーバラ・ブチェクとシェッフェル研究がライフワークで、念願の著書上梓直後であったルドミラ・スタヴォヴィを相次いで亡くし、また世界の楽壇からも委嘱が遠ざかる不運に見舞われた。この経緯を「クラリネット、アコーディオン、打楽器、コントラバスのためのBB,RHR,KS,LSへの意見」(1998年)で音楽作品化してもいる。
1990年代後半から、「ピアノ独奏のためのダイアグラムを用いた習作第三番」(1999年)、「六台ピアノのためのセクステルヌス」(1998年)などで長らく遠ざかっていた図形楽譜を再評価する試みが見られる。その一方「弦楽四重奏曲第九番」(1999年)では42分の持続の中に、明らかに古典や伝統を強く意識する態度が顕著である。2000年以降は、これらの複数の鉱脈を統合する新たな試みへ向かってゆく。
[編集] 2000年以降の作風
1990年代に大きな実りをもたらした後も、創作意欲は衰えるどころか増している。2000年は年間25作品を完成させた。手馴れた楽器やメディアのための作曲が中心であり、プラクティカルな態度で望むことが多い。しかし、コンセプトを徹底させる創作には抜かりはなく、48の異なるテンポでクライマックスが訪れる「48人のヴァイオリニストのためのモノフォニーVIII」(2000年)、ホーミーアンサンブルとヴァイオリンが競演するおそらく世界で最初の「ヴァイオリンとポリフォニック合唱のための協奏曲」(2004年)など、さまざまな実験的作品を書き続けている。1960年代のイディオムを未だに使いこなし、同時代の流行と無縁で独自の道を歩んでいる。
この事実を物語る典型例が「ヴァイオリン協奏曲第四番」(2003年)である。オーケストラパートには五線記譜と図形記譜が併用されているが、この図形記譜の使用が何の苦もなく五線記譜で得られる音響と混合されいささかの様式の乱れもない。近年の図形記譜のほうが、往年の図形記譜よりも美しいマテリアルを使っていることも特筆される。近年の彼の作品はきわめて美しい調性的断章もかつての激しい作風にブレンドされており、創作の幅が広がり続けている。彼にとっての「調性」とは主題の二項対立、和声、対位を伴って初めて調性と認識するのであり、なんらかの逸脱があればそうではない。その結果「四つの詩篇」(2000年)では半調性的な作風で書かれているが和声の接合が声部ごとに異なり、燻し銀のような和声感覚から東欧の民族性を濃厚に想起させる。
作品数の増大に伴い、題名は徐々に古典で用いられるものをそのまま使う傾向が見られるために、編纂がより困難になっている。近年は可能性を汲み尽くしていないジャンルの作品を集中して書くことが多く、弦楽四重奏曲は2000年以降新たに8作を書き下ろしたり、ピアノ独奏のための「モデル」も2000年以降12作を書き上げている。
「ピアノ協奏曲第五番」(2002年)ではクラスターや無調的な音形から不意に七の和音を予期せぬ形で挿入し、かつての語法の殺気を緩和する目的があるようだ。第十回アヴァンギャルド・チロルで初演された「オーボエ、トロンボーン、ピアノを伴う独奏チェロのためのコンチェルティーノ」(2006年)では四つの楽器はすべて異なるテンポで開始されるが、次の段にはもうすべてのテンポ情報が書き換えられる。この不断の書き換えのなかにインテンポのセクションも楽譜上では確認できるのだが、いつそのセクションに移ったかは聴覚上では確認しずらい。またシェッフェルには珍しく、音量を必要以上に控えた表現や単純なクリシェの使用も新たな創作の展開を感じさせる。
[編集] 作品
- 詳細はボグスワフ・シェッフェルの作品一覧を参照。
Polish Music Information Centre WEBサイト内に、年代と編成を網羅した作品データベースが設けられ、現在461曲が登録されているが、かなりの欠落と番号ずれが認められる。一番正確に近い作品リストは前述のバルバラ・ドブレツベルガーの著書にある2000年までの433作を数えたものである。しかし、彼はその後100作を新たに書き下ろしており、最新版の作品リストが各方面から望まれている。
全作品及び著作集は、ザルツブルクのCollsch社より入手することができる。また販売された音源は全作品の5%にも満たない。記録された音源を含めても、全作品の20%にも満たない。
[編集] 研究と受容
バルバラ・ドブレツベルガー、ヤドヴィガ・ホードラ、ルドミラ・スタヴォヴィ、ヨアンナ・ザヨッチ等により、研究書が刊行されている。最も詳細なシェッフェル研究はヤドヴィガ・ホードラの博士論文Filozofia kultury Bogusława Schaeffera(1993年、ポーランド語)と著書Boguslaw Schaeffer and his Music((1976年、英語)になる。当然これらの研究は現在のシェッフェルの創作状況のリサーチではなく、ホードラは2006年にポーランドの音楽雑誌にシェッフェルの近況を若干投稿した模様である。
前述の『作曲概論』は中国語版と韓国語版が存在するが、参照された楽譜例の中に黛敏郎の作品があるにもかかわらず日本語版はついに出版されることはなかった。ポーランド音楽出版社のカタログからも2000年に消滅している。
[編集] 外部リンク
[編集] 音楽に関するもの
[編集] 戯曲に関するもの
- シェッフェルの戯曲『ALLES(1998)』の全文シェッフェルの戯曲は日本語で上演が未だに行われていない。英語でシェッフェルの簡単な劇作の略歴も参照できる。
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