ヴィトルト・ルトスワフスキ
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ヴィトルト・ルトスワフスキ(Witold Lutosławski, 1913年1月25日 - 1994年2月7日)は、ポーランドを代表する作曲家、ピアニスト。ヴィトルド・ルトスワフスキとも呼ばれる。
目次 |
[編集] 略歴
- 1913年1月25日、ポーランドのワルシャワに生まれた。
- 1937年ワルシャワ音楽院を卒業した。
- 1954年に代表作、管弦楽のための協奏曲を作曲した。
- 1959年 - 1965年は、 国際現代音楽協会のポーランド支部委員に選ばれた。
- 1963年からは、ヨーロッパ全土で活躍。各地で絶賛される。
- 1994年2月7日、ヴァイオリン協奏曲を作曲中に急逝した。享年81。
[編集] 作風
作曲時期、特に「ヴェネチアの遊び」以前と以後で作風は大きく変わるが、音楽の持つエネルギーを完璧に制御する技術を手中に収め、クライマックスを築く書法は生涯全体において共通する。
自筆譜は、彼の作品のクオリティ同様、自ら五線を引き製図のように美しいことが多かった。
[編集] 第一期
「二つの練習曲」、「二台ピアノの為のパガニーニの主題による変奏曲」などは、彼の出発点とも言える新古典的様式を示しており、硬質の形状を伴った音楽作りはこのころから生涯を通じて変わっていない。当時はピアニストとしても活躍しており、「パガニーニ~」は自作自演で初演した。順風満帆に見えた創作は第二次世界大戦で中断せざるを得なくなり、捕虜として捕えられる。仲間の多くが亡くなる中、徒歩による数十キロの逃避行の後に帰還した。確かに手ごたえは感じさせるものの、このころはまだ堅牢な音楽性に留まっている。本来はグラチナ・バチェーヴィチらと同枠で語られるポジションに位置していた。戦後はソビエトの衛星国となったポーランドの共産主義による規制でますます前衛的な曲を書くことが制限されたが、「賞組曲」やクラリネットと管弦楽のための「ダンス・プレリュード」などのいくつかの喜遊曲的な小品を経て、この時期の集大成である「管弦楽の為の協奏曲」が書かれた。
この時代のルトスワフスキはすでにポーランド国内でも評価が高く、デビュー直前のボグスワフ・シェッフェルはこの時期に世界で初めてルトスワフスキの論文を仕上げている。
[編集] 第二期
「スターリンは死んだ。これからは私たちの時代だ。」ポーランドは東欧の共産主義諸国としては例外的にスターリンの死後前衛芸術への門戸を開き、ポーランド楽派や映画のポーランド派などがそれらの活動の前衛性で西側諸国にも注目された。
その中で前述の旧ソ連への挑発的なコメントを公的な場で発したルトスワフスキは、まず12音技法の修練の為に「葬送の為の音楽」を作曲する。ジョン・ケージの「ピアノとオーケストラの為のコンサート」を聴いた彼は、180度作曲観が変わったと述べたが、それでもシュトックハウゼン、ブレーズ、ケージらの前衛イディオムの単なる引き写しを行わず、自らが納得のゆく語法を1960年代中庸まで暖めつづけた点にある。この自己語法は後年「12音和音」と「ad-lib動律」に帰結し、精度の高いオーケストラ音楽へ昇華した。
「ヴェネツィアの遊び」で初めて採用し、以後「弦楽四重奏曲」、「交響曲第二番」、「チェロ協奏曲」で現れる「ad-lib動律」とは、各パートが「それぞれのアゴーギクを保ちつつ」、「ほぼそのように」演奏される為に、指揮者は入りの瞬間だけをキューで示し、後の音楽の進行はそれぞれの奏者ごとに与えられる異なったテンポやフレーズ、繰り返しに任される。このことにより、各パートの旋律の様相がクリアに浮かび上がる利点を持つために、不確定性全盛の時代の中で最も成功したと言われている。ただし、このテクニックでは、セクションが終わるまで動律が止まらない為に、衝撃音か合図音で打ち切らなければ次に進めないなどのいくつかの問題点を生んでいた。しかし、1970年代以降の諸作品でも修正を行いながらこのテクニックは手放さなかった。このad-libセクションと、通常の小節線によるセクションを往復することを、初期には縄状形式、後に呼び方を改め「チェーン形式」と呼んだ。
「12音和音」は12音すべてを用いる和音を指すが、元々第一期から音数の多い和音を好んできた彼にとっては、この合音集合は都合が良かった。クライマックスのシーンで12個すべてを鳴らすアイデアはベルント・アロイス・ツィンマーマンの態度に似るが、12音を鳴らした時点で時間が宙吊りになるといったツィンマーマンとは逆に、12個すべてを鳴らす瞬間こそが調性音楽の「終止音」に該当するといったアイデアに近い。このテクニックも後年は特定の音程を強調するなど、調性化が避けられなくなった。
当時の受容は専ら新しい技法の開拓者という点でルトスワフスキは評価されていたが、現在の耳で聞くと驚くほど後期印象派のオーケストラ音楽の香りが漂っている。半音クラスターよりも「12音和音」を好むなどの姿勢は、カールハインツ・シュトックハウゼンよりはルチアーノ・ベリオに近い。このように「伝統に少しづつ新しさを加味する」姿勢が、新旧問わず多くの聴衆からの賛辞を受けた最大の要因である。1970年代は、「プレリュードとフーガ」、「オーボエとハープの為の二重協奏曲」などの手堅い楽器法で貫禄はひとまず保っていた。
[編集] 第三期
1980年代は著名なクラシック演奏家からの委嘱が増えるにつれ、伝統的な作曲技法への傾斜がより顕著になった。各パート間のリズム語法が大変単純な為に、一歩間違うと20世紀前半のイディオムと区別がつかない問題点を生んでいた。室内楽ヴァージョンとオーケストラヴァージョンの二種が存在する、ヴァイオリン・ピアノとオーケストラのための「パルティータ」にこの欠陥が直に見られる。ロンドン・シンフォニエッタが多額の委嘱料で臨んだこの新作も、それほどの結果には至らなかった。特にオーケストラ版では、ad-lib道律で動く箇所がヴァイオリンとピアノのデュエ・カデンツェ以外に無く、オーケストラを伴う箇所は全て小節線を伴う従来の書法である。この曲は「チェーン2」と題されたヴァイオリンとオーケストラのための曲(事実上の協奏曲形式)と対を成し、間を「間奏曲」で繋いで連続して演奏することが出来るが、「チェーン2」が文字通りチェーン形式と定義され、独奏ヴァイオリンが始動の鍵となってオーケストラを各奏者の自由なテンポで操作できる場面が何度も現れるが、それと対峙させた場合、より「パルティータ」が伝統的な書法であることが垣間見える。
「交響曲第三番」はショルティの指揮とシカゴ交響楽団で初演され、未だ現代音楽に疎かったアメリカの聴衆は大絶賛で迎えた。しかし、この曲は既にオクターブや三度音程に加えて4音ライトモティーフまで出現し、ほとんどクラシックにしか聞こえないという批判の声も見られた。新ロマン主義全盛であった当時は、彼ですらもこの流行に順応する結果を招いたが、管弦楽法の冴えが衰えることはなく、かつ前衛イディオムは表層に現れないために人気は上がりつづけた。クリスティアン・ツィマーマンの完璧な演奏マナーに支えられた「ピアノ協奏曲」や「交響曲第四番」も同路線で作曲されている。
「サンフランシスコ交響楽団のためのファンファーレ」でも、金管の同音連打がかつての彼の様式を偲ばせるが、楽譜は定量記譜の中に収まっている。この時期名声は頂点に達していたが、作曲技法の更新状況は遅れっぱなしであったことは否定できない。
[編集] エピソード
- ヨシフ・スターリン没後ほどなくして、ソ連政府の一切の文化的抑制に対して屈しないことを公的に表明した。
- 国際現代音楽祭で自作品が演奏されていた松平頼則に向かって、「この作品をどうしてコンクールに出さない?出せば間違いなく優勝だ」と激励した。ちなみにその作品は「右舞」であり、その後ローマ国際作曲コンクールで優勝した作品が「左舞」である。
- 国際的な名声を表彰して、後年ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール、ヴィトルト・ルトスワフスキ国際チェロコンクールが開催されることとなった。そのコンクール本選会の際に、「作曲家の質は学歴ではなく、作品で選ばれるべきです」と述べた。
[編集] 主要作品
- 管弦楽のための協奏曲(1954)
- 葬送音楽(1958)
- ヴェネツィアの遊び(1961)
- 交響曲第2番(1967)
- チェロ協奏曲(1970)
- 交響曲第3番
- ピアノ協奏曲
- スビト(1992)
- ミニ・オーヴァチュア(金管五重奏)
- ヴァイオリン協奏曲(未完)
[編集] 外部リンク