甲斐説宗
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甲斐説宗(かい せっしゅう、1938年11月15日 - 1978年10月31日)は日本の現代音楽の作曲家。
[編集] 略歴
東京藝術大学作曲科卒業後、当時の西ドイツのベルリン音楽大学で主にボリス・ブラッハーに師事。念願のジェルジ・リゲティのレッスンも受けた。後に東京学芸大学で教え、井上郷子などの優れた後進を指導した。
[編集] 作風
帰国後は、独自の作風を展開する異色の存在とみなされる。原田力男のように大絶賛するプロデューサーにも恵まれ、また良き理解者や演奏家にも助けられた。しかし、その作風の全貌はムジカ・リチェルカータの頃の初期ジェルジ・リゲティや音響モデル偏重の初期ヘンリク・ミコワイ・グレツキに近く、「簡素な初期設定を耳で追える楽しみ」を追求した、一種の音響作曲法であったことが判明している。
特に、本人も絶賛したグレツキへの傾倒は著しく、「三人のマリンバ奏者の為の音楽 (1975-1977)」では「Muzyczka III(1967)」、「五人の奏者の為の音楽(1970/1971)」や「ピアノの為の音楽 I (1974)」でみられるアナーキズムは「Genesis – III (1963)」からの影響が感じられる。
晩年は四分音符と四分休符のみで作曲された「ヴァイオリンとチェロの為の音楽 II (1975-1976)」や「ヴァイオリンとピアノの為の音楽 II (1978)」でストイックな境地を追求するが、これは当時リヴァイヴァルが進んでいたガリーナ・ウストヴォーリスカヤの「ピアノソナタ第三番 (1952)」に構成法が酷似している。
近藤譲のデビューは甲斐にとって無視できないものと映り、恐らくは自分の後継とみなしたのであろうか、東京学芸大学へ彼を招いた。こうして、「耳で聞く構造」をテーマに据える作曲家たちが日本に根付くことになった。現在では「彼はいくらなんでも過大評価されすぎたのではないか」という声も聞かれるが、第一次ポーランド楽派の最優等生を日本に紹介した彼の貢献は計り知れない物がある。
個人様式に開眼してから活躍できた期間はわずか10年足らずであり、その早世が今もなお惜しまれている。創作楽器のための「アナラポスのためのインタラクティビティ (1977-1978)」で聞かれる個々の美しい響きの立ち上がりは、残された全作品の頂点に位置している。