ブルターニュ地域圏
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フランス > ブルターニュ地域圏
ブルターニュ地域圏 Bretagne |
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首府 | レンヌ Rennes |
人口 | 3,044,000人 (2005年) |
面積 | 27,208km² |
県 | コート=ダルモール県 (Côtes-d'Armor)(22) フィニステール県 |
郡 | 15 |
小郡 | 201 |
市町村 | 1,268 |
ブルターニュ(フランス語: Bretagne、ブルトン語: Breizh)は、フランス北西部の大西洋に大きく突き出した半島である。北は英国海峡、南はビスケー湾に面する。同地域の4県を管轄するフランスの地域圏の名称でもある。ケルト系ブルトン人の言語、風俗が強く残存した地域。日本の近畿地方ほどの面積に、茨城県と同程度の人口が集まっている。最大都市は州都であり学術都市でもあるレンヌ(人口約21万人)。
目次 |
[編集] 歴史
もともとはケルト系アルモリカ人の住地だったが、紀元前58年古代ローマのガイウス・ユリウス・カエサルによって征服され、ローマ領ガリアのアルモリカ地方となった。4,5世紀になってブリテン島やガリアにおけるローマ帝国の支配が大きく後退すると、ゲルマン系アングロ・サクソン人に襲われたブリテン島西南部からケルト人が海峡を越えて大量にこの半島に来住してきた。ブリテン島から来たケルト人をフランスではブルトン人と呼び、彼らが住む地域をブルターニュと呼ぶようになったものである。
中世初期には三王国が分立したが、やがてブルターニュ公国に統一された。ブルターニュ公国はフランク王国に形式上臣従したが、実質的には独立的な地域であった。ローマの遺産の上にゲルマン系フランク人の支配が形成されたフランス主要部とは異なり、ブルターニュではケルト系の風俗・風習が強く残存する。地理的にイングランドに近い(実際にイングランド王室であるアンジュー家が領有していた時期がある)ため、しばしばイングランド王の介入を招き、英仏百年戦争ではブルターニュ公国の支配権をめぐってブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)が起こった。
近世になるとフランス王国の力が強大化し、最後のブルターニュ女公アンヌ(在位1488年 - 1514年)が即位すると、フランス王シャルル8世がブルターニュに侵攻、ハプスブルク家のマクシミリアンとアンヌの婚姻を無効とし自身との結婚を強制した。シャルル死後もアンヌはルイ12世との再婚を余儀なくされ、アンヌが死去するとその娘クロードは皇太子時代のフランソワ1世と結婚、1532年ブルターニュはフランスに併合された。この以後はパリから派遣された知事が地方行政に当る。またフランス皇太子は代々ブルターニュ公を名乗るようになった。これはイギリス皇太子がプリンス・オブ・ウェールズを名乗るのと同じである。
18世紀末のフランス革命では反革命王党派の一大根拠地となり、またカトリックの牙城でもあった。中央政府に反逆的な特異な地方としてブルターニュの開発は大きく遅れたが、近年ヨーロッパ連合 (EU) の補助金が大量に導入され、この地方の生活水準は著しく向上している。なお、ブルターニュ半島西端のブレストはフランス最大の軍港となっている。
[編集] 風俗習慣
フランス中央とは風俗習慣が全く異なるため、現在でも相続法など民法の一部については独自の慣習法が認められている。
[編集] 言語
ブルトン人の言語はインド・ヨーロッパ語族ケルト語派ブリタニック語群ブルターニュ語で、イギリスのウェールズ語に近く、ロマンス語系のフランス語とは全く異なる。フランス政府は地方の独自性を認めない中央集権的な言語政策を取り、学校教育を通じてフランス語が普及したため、ブルターニュ語は日常生活であまり使われなくなったが、近年は少数言語として復活の努力がなされている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Bretagne.com(フランス語)
- フランスの地域圏
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- フランスの地方行政区画も参照。