ジム・パチョレック
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ジム・パチョレック(James Joseph Paciorek、1960年6月7日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身のプロ野球選手。アメリカのメジャーリーグや日本のプロ野球でプレーした。身長191cm、体重92kg、右投右打。愛称は「パッキー」。
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[編集] 来歴・人物
ミシガン大学在学中には、野球だけでなくアメリカンフットボールのレギュラーも務めるほどの体格と運動神経を持ち、同大学を卒業した1981年のドラフト会議でクリーブランド・インディアンスから14位指名された。しかし、同年は入団を拒否し、翌年の8位指名でミルウォーキー・ブリュワーズに入団した。その後、長くマイナーリーグでのプレーが続いたが、1987年にようやくメジャーリーグに昇格し、主に一塁手、三塁手として48試合に出場した。
翌1988年からは、ミシガン大学時代に日米大学野球で訪れた日本でのプレーを希望し、横浜大洋ホエールズに入団した。同年、497打数165安打で打率2位、安打1位という好成績を残し、外野手としてセントラル・リーグのベストナインに選ばれた。また、おとなしい性格だが、真面目な態度と確実性のある打撃からたちまち人気を得た。その後も、四番打者カルロス・ポンセの後を打つ五番打者として毎年安定した結果を残し、1989年にも打率2位となり、1990年には527打数172安打で念願の首位打者のタイトルを獲得した。1991年、それまでの3年間を下回る成績に終わり、この年限りで横浜大洋は契約を打ち切った。とはいえ打率3割、70打点を超えており、その他の成績も極端には落ちておらず、追われるように退団した形になった。この件についてパチョレック本人は「とにかく僕に日本でのプレーの機会を与えてくれたのは大洋だからね。大洋には感謝しているよ」と答えている。大洋のフロント陣の判断が間違っていた事は翌年証明される。
1992年からはトーマス・オマリーの誘いもあり、同じセントラル・リーグに所属する阪神タイガースに移籍した。同年、ラッキーゾーンが本拠地阪神甲子園球場から撤去され、守備力が向上した阪神は、1986年以来となるAクラスになった。パチョレックは、当初三番打者を任されていたが、シーズン後半からはオマリーに代わって四番打者に抜擢され、リーグ最多となる159安打、14勝利打点で期待に応えた。惜しくも優勝は逃したものの、ベストナインとゴールデングラブ賞の一塁手部門に選ばれた。また、亀山努、オマリーとともにPKO(Paciorek, Kameyama, O'Malleyの頭文字)と呼ばれ、ファンからも支持を受けた。1993年、当時は3名以上の外国人選手を出場選手登録することはできなかったにもかかわらず、阪神は3人目の外国人選手として郭李建夫を獲得した。
このため、パチョレック、郭李、オマリーのうち一人が出場できないという問題がおき、当時の社会問題になっていた国連平和維持活動の問題になぞらえ、このこともPKO問題と呼ばれた。当初は実績のあるパチョレックとオマリーが出場していたが、腰痛のためにパチョレックは試合に出られなくなり、出場選手登録枠を郭李に譲ってファームに落ちると、シーズン中に惜しまれながら退団した(オマリーがお立ち台で関西弁を駆使して「阪神ファンは1番や!」と絶叫して人気を集めていたが、パチョレックもお立ち台で「阪神ファンは10番目の野手」とファンの持つ大きな力に感謝する発言をしていたため、退団を惜しむファンが多かったといわれる)。アメリカ合衆国に帰国してからは、メジャーリーグ復帰を目指したが、復帰は叶わずにそのまま引退した。
2004年4月6日には横浜スタジアムで行われた古巣・横浜主催ゲームの開幕戦(対阪神戦)の始球式をつとめる為に11年ぶりに来日。両チームの古くからのファンを喜ばせた。また、「僕は両チームとも在籍したけどあえて言うならクジラ(大洋の意味)のファンだね」と言い残し再び母国に帰っていった。
[編集] タイトル、表彰、記録
- 首位打者(1990)
- 最多勝利打点(1991、1992)
- ベストナイン 3回
- 外野手(1988、90)
- 一塁手(1992)
- ゴールデングラブ賞一塁手(1992)
- 一塁手イニング最多補殺 3(1992.7.30) セ・リーグ記録
[編集] 年度別成績
[編集] MLB
年度 | 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 犠打 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 得点 | 盗塁 | 年齢 | 球団 | 背番号 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | 48 | 101 | 23 | 5 | 0 | 2 | 34 | 10 | 0 | 12 | 0 | 20 | .228 | 16 | 1 | 27歳 | MIL | 14 |
通算 (1シーズン) |
48 | 101 | 23 | 5 | 0 | 2 | 34 | 10 | 0 | 12 | 0 | 20 | .228 | 16 | 1 |
[編集] NPB
年度 | 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 犠打 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 得点 | 盗塁 | 年齢 | 球団 | 背番号 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 昭和63年 |
130 | 497 | 165 | 33 | 2 | 17 | 253 | 76 | 1 | 30 | 5 | 59 | .332 | 58 | 6 | 28歳 | 大洋 | 14 |
1989年 平成元年 |
118 | 435 | 145 | 32 | 3 | 12 | 219 | 62 | 2 | 33 | 1 | 45 | .333 | 48 | 2 | 29歳 | ||
1990年 平成2年 |
133 | 527 | 172 | 36 | 3 | 17 | 265 | 94 | 0 | 26 | 5 | 47 | .326 | 78 | 3 | 30歳 | ||
1991年 平成3年 |
114 | 442 | 137 | 23 | 1 | 11 | 195 | 75 | 0 | 31 | 4 | 49 | .310 | 52 | 0 | 31歳 | ||
1992年 平成4年 |
129 | 512 | 159 | 33 | 0 | 22 | 258 | 88 | 0 | 40 | 4 | 73 | .311 | 73 | 0 | 32歳 | 阪神 | 42 |
1993年 平成5年 |
74 | 263 | 64 | 12 | 1 | 7 | 99 | 36 | 0 | 32 | 0 | 45 | .243 | 24 | 1 | 33歳 | ||
通算 6シーズン |
698 | 2676 | 842 | 169 | 10 | 86 | 1289 | 431 | 3 | 192 | 19 | 318 | .315 | 333 | 12 |
[編集] 関連項目
- 阪神タイガース4番打者
- 第64代
-
- 先代:
- 八木裕
- 次代:
- 新庄剛志