キャンディーズ
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キャンディーズ(Candies)は、1970年代の日本のアイドル歌手グループである。ラン(伊藤蘭、1955年1月13日 - )、スー(田中好子、1956年4月8日 - )、ミキ(藤村美樹、1956年1月15日 - )の3人組。渡辺プロダクション所属。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版社員であった松崎澄夫(元アウト・キャスト)のプロデュースによるものである。
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[編集] 年表
[編集] 略歴
3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。1972年NHKの新番組「歌謡グランドショー」のマスコットガールに3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「キャンディーズ」と名付けられた。翌年1973年歌手デビュー。
デビュー前から人気バラエティ番組「8時だョ!全員集合」にレギュラー出演するも、しばらくはヒット曲に恵まれなかった。当時の人気アイドルは妹的イメージで売り出すことが多く、キャンディーズも初めはハイトーンボーカルのスーをセンターでメインボーカルに起用し、この路線で売っていたが期待したほど売れず、5枚目のシングル「年下の男の子」(1975年発売)で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターのランをセンターでメインボーカルに据えて前面に出し、これが当たって初ヒットとなった。以降のシングルでは、「わな」がミキのセンターである以外はすべてランがセンターを務めた。ランをセンターに据えたのは当時のマネージャーである諸岡義明の提案によるものである。
その後も、個性の違う3人という組み合わせや、「8時だョ!全員集合」や、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により幅広い人気を獲得した。
遅れてデビューしたピンク・レディーとはライバルともいえる関係になったが、デビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を獲得したピンクレディーに対し、レコード売り上げ等は劣勢だった。
1976年に入った頃には全員楽譜が読め、コーラスなどにも積極的に取り組むなど音楽レベルも向上。さらにはメンバーの作詞作曲による作品も多く、当時のアイドルシーンには珍しく音楽に対して前向きに取り組んでいた。後期のアルバム『早春譜』に至っては、作曲こそプロ作家との合作であったものの、全曲メンバーオリジナル(伊藤蘭名義7曲、藤村美樹名義7曲、田中好子名義6曲)による作品であった。
人気絶頂時の1977年に突如解散を発表。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートでの発言「普通の女の子に戻りたい」は非常に有名で、流行語になっている。3人は1977年9月末で解散する意思を固めていたが、事前に所属事務所に相談せず独断で発表したこともあり、事務所の説得と話し合いの末、解散は半年間先送りされることになった。
この解散発表によってキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では初めてオリコン1位を獲得した。一世を風靡したアイドルグループといえど解散時には人気が下降しているのが相場であり、後のピンク・レディーや、おニャン子クラブ、SPEEDなどにしても、ラストシングルは解散祝儀を併せてもオリコン1位は新鋭に譲らざるを得なかった事を考慮すれば、恐らく空前絶後であろう。人気が落ちて解散ではなく、キャンディーズは解散によって人気を盛り上げたと言える。
1978年4月4日、後楽園球場に5万5千人を集めての解散コンサートが行われ、4年半の活動に終止符を打った。この模様は全国にテレビで中継され、高視聴率を獲得している。最後に述べた「私たちは幸せでした」の口上も有名。その後は一度も再結成をしていない(この点では事務所の先輩であったザ・ピーナッツも同じである)。
[編集] 解散後
3人とも芸能界に復帰していた時期があった。
- 伊藤蘭は、俳優水谷豊と結婚。現在は女優として活動中。
- 田中好子はソロでの音楽活動も行ったが、現在はおもに女優として活動中。
- 藤村美樹は1983年にソロ歌手として1曲限定で復帰し、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」を発表、マスコミにも取りあげられ、ザ・トップテンにも10位にランクインしスマッシュヒットとなった。結婚を機に再度引退。以後、芸能界の表舞台には出てきていない。
[編集] 音楽
[編集] シングル
- あなたに夢中(1973年9月1日) 作詞 山上路夫 / 作曲 森田公一
- そよ風のくちづけ(1974年1月21日) 作詞 山上路夫 / 作曲 森田公一
- 危い土曜日(1974年4月21日) 作詞 安井かずみ / 作曲 森田公一
- なみだの季節(1974年9月21日) 作詞 千家和也 / 作曲 穂口雄右
- 年下の男の子(1975年2月21日) 作詞 千家和也 / 作曲 穂口雄右 キャンディーズ初のBEST10入り
- 内気なあいつ(1975年6月1日) 作詞 千家和也 / 作曲 穂口雄右
- その気にさせないで(1975年9月1日) 作詞 千家和也 / 作曲 穂口雄右
- ハートのエースが出てこない(1975年12月5日) 作詞 竜真知子 / 作曲 森田公一
- 春一番(1976年3月1日) 作詞 穂口雄右 / 作曲 穂口雄右
- 夏が来た!(1976年5月31日) 作詞 穂口雄右 / 作曲 穂口雄右
- ハート泥棒(1976年9月1日) 作詞 林春生 / 作曲 すぎやまこういち
- 哀愁のシンフォニー(1976年11月21日) 作詞 なかにし礼 / 作曲 三木たかし
- やさしい悪魔(1977年3月1日) 作詞 喜多条忠 / 作曲 吉田拓郎
- 暑中お見舞い申し上げます(1977年6月21日) 作詞 喜多条 忠 / 作曲 佐瀬壽一
- アン・ドゥ・トロワ(1977年9月21日) 作詞 喜多条 忠 / 作曲 吉田拓郎
- わな(1977年12月5日) 作詞 島武実 / 作曲 穂口雄右
- 微笑がえし(1978年2月25日) 作詞 阿木燿子 / 作曲 穂口雄右 事実上のラストシングル、有終の美を飾りNo.1獲得
- つばさ(1978年11月21日) 作詞 伊藤蘭 / 作曲 渡辺茂樹 キャンディーズの意向に反して発売されたもの
[編集] アルバム
発売順 | タイトル | 発売日 | 曲数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | あなたに夢中 / 内気なキャンディーズ | 1973.12.5 | 12 | |
2 | 危い土曜日 / キャンディーズの世界 | 1974.6.21 | 12 | |
3 | なみだの季節 | 1974.12.10 | 12 | |
4 | 年下の男の子 | 1975.4.21 | 12 | |
5 | その気にさせないで | 1975.10.1 | 12 | |
6 | Candies' Carnival For 10000 People | 1975.12.21 | 10 | 1975.10.19 蔵前国技館LIVE |
7 | 春一番 | 1976.4.1 | 12 | |
8 | 夏が来た! | 1976.7.21 | 12 | |
9 | キャンディーズ・ライブ | 1976.12.5 | 18 | 1976.10.11 蔵前国技館LIVE |
10 | 1 1/2 | 1977.4.21 | 18 | 2枚組 |
11 | Candy Label | 1977.9.1 | 16 | 2枚組 |
12 | 1676 DAYS | 1977.12.5 | 58 | 5枚組 |
13 | 早春譜 | 1978.3.21 | 20 | 2枚組 |
14 | FINAL CARNIVAL Plus One | 1978.5.21 | 39 | 1978.4.4 後楽園球場LIVE、3枚組 |
[編集] レギュラー番組
[編集] CM出演
[編集] エピソード等
[要出典] 一説に、解散宣言は当時の所属事務所から離れるためだったと言われている。大人気の時期も3人のギャラは給料制で安く抑えられていた(渡辺プロは給料制が原則)など、事務所に対する不満があったという話もある。つまり「普通の女の子に戻りたい」は方便であり、「解散」(所属事務所離脱)はしても「引退」はしない腹づもりだったらしい。実際3人とも後に芸能界に復帰している(ミキはすぐに再引退)。
とはいえドル箱アイドルを所属事務所が簡単に手放すはずもなく、引退までの期間に全国をコンサートツアーし、事務所に最後の一儲けをもたらすことで話がついたという説がある。いわゆる引退記念興行路線であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(こういう性質の興行は1975年のザ・ピーナッツが最初と言われる)。リリースするレコードも、刻々と迫る引退を視野に入れた内容になっていき、ファンの購買意欲をくすぐる戦略が見える。ずっとメインボーカルの機会がなかったミキに、1曲のみとはいえメインの座が与えられたのも、ミキファンへの還元=事務所側の収入増という図式ゆえだろう。
キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったとして、キャンディーズ解散後にトライアングルに改名する一幕もあった。
日本初の、全国組織型ファンクラブ(全日本キャンディーズ連合(略称・「全キャン連」))を持ったアイドルとしても知られる。
同一事務所に所属していた太田裕美もキャンディーズのオーディションに参加しており、メンバーになる可能性もあった。もし実現していれば、ラン・スー・ミキに倣って「ヒロ」と呼ばれていたであろうと言われている。
同一事務所に所属していたザ・ピーナッツから衣装をプレゼントされたが、2着しかなかったのでもう1着をピーナッツ側が作成して用意したという逸話も残されている。
アイドルではあったが女性人気も高くファッションリーダー的な面もあり当時はポルノの女優までもが髪型を真似ていた。ファンには学生運動崩れの武闘派も多数いたという。
[編集] 主な共演者
[編集] 支えた裏方達
- 穂口雄右 「春一番」「年下の男の子」「微笑がえし」等代表曲の作詞や作曲を担当した作曲家。元GSアウト・キャストのメンバー。
- MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ) キャンディーズ全盛期のライブを支えたバックバンド。後のスペクトラム。
- 大里洋吉(元渡辺プロダクション社員。現アミューズ会長)。初代キャンディーズ担当マネージャーに就任。キャンディーズ解散とほぼ同時に渡辺プロダクションを退社しアミューズを設立。サザンオールスターズなどをスターに育て上げた。
- 諸岡義明 渡辺プロダクション社員(当時。現在はワタナベエンターテインメント専務)。ザ・ピーナッツ担当後、1975年より1977年まで2代目のキャンディーズ担当マネージャーに就任。前述のランのセンター指名など、キャンディーズを大ヒットアイドルに育てた。常に3人と行動を共にし、的確に指導を行っていた。また諸岡以下のキャンディーズを支えた裏方達は「花の諸岡班」とも言われていた。マネージャー交代時にはランは余りのショックに相当落ち込んでいたと言われている。
[編集] その他
- 南海キャンディーズは、メンバーが「Mr.キャンディー」と呼ばれた事に因み、当キャンディーズとは無関係。(詳しくは南海キャンディーズの項参照)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 『ばいばいキャンディーズ キャンディーズ百科』 ペップ出版、1978年
- 『CANDIES HISTORY』(CDボックス)付録ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント、1998年
- 野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代』新潮社、2006年
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