ガイウス・カッシウス・ロンギヌス
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ガイウス・カッシウス・ロンギヌス(Gaius Cassius Longinus, 紀元前42年没)は、共和政ローマ末期の元老院議員で、マルクス・ユニウス・ブルートゥスと共にガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺の首謀者として知られている。単にカッシウスやカシウスと表記されることも多い。エピクロス派の信奉者でもあった。
若きカッシウスは三頭官のマルクス・リキニウス・クラッススの行なったパルティア遠征でその名をあげた。クラッスス自身が敗死するなどローマ側の大敗となったカラエの戦いをカッシウスは生き残り、その後敗残兵をよくまとめパルティア側の属州への侵攻を防いだ。
その後ローマがカエサルによって内乱に導かれると、カッシウスは元老院と共にあったポンペイウス側に組した。ファルサロスの戦いでポンペイウスが敗れるとカッシウスは他の元老院議員同様カエサルに許され、カエサルの支配するローマで紀元前44年に外人係プラエトル (praetor peregrinus) に就任した。このとき同僚の首都プラエトルはマルクス・ブルートゥスであった。
カッシウスはブルートゥスとともに、当時王位を望んでいたとされたカエサルの暗殺を計画する。暗殺犯たちの精神面でのリーダーには、ローマの王政を廃したルキウス・ユニウス・ブルートゥスの末裔といわれ、ストア派の信奉者として廉潔な性格を知られていたブルートゥスが就き、カッシウスは計画の実務面について中心を担ったとされる。実務においてブルートゥスより才能に恵まれていたカッシウスは、カエサルの暗殺に際してその腹心の部下であり後継者となるおそれのあったマルクス・アントニウスも同時に殺害するべきと主張した。しかし暗殺の大義を重視するブルートゥスはカエサル以外のローマ市民の血が流れることを望まず、暗殺の対象はカエサルのみとする計画が立てられた。
紀元前44年3月15日にカッシウスらはカエサルの暗殺に成功した。しかしアントニウスによるカエサルの追悼演説などを受けローマの情勢は共和派の望まぬ方向へと推移していった。こうした情勢の中、カッシウスは暗殺以前から決定していた任地のシリアへ向かうためローマを離れ、シリアにいたカエサル派のプブリウス・コルネリウス・ドラベッラを破り、軍勢を整えた。その後ブルートゥスと合流したカッシウスはカエサル派の反攻に備えた。
第二回三頭政治を成立させローマの支配権を手中にしたアントニウスとオクタウィアヌスは共和派への反攻を開始した。カッシウス、ブルートゥスとアントニウス、オクタウィアヌスの両軍はマケドニアのフィリッピで対峙した。フィリッピの戦いではカッシウスがアントニウスを、ブルートゥスがオクタウィアヌスをそれぞれ受け持った。ブルートゥスはオクタウィアヌス軍に対し優勢に戦ったが、カッシウスは逆にアントニウス軍に押し込まれた。戦いの中で自軍が全面的に敗れていると形勢を誤解したカッシウスは騎兵隊の接近を受けて自ら命を絶った。ブルートゥスに軍事的才能で勝っていたカッシウスを失った結果、その後行なわれた2度目の戦いで共和派は完敗しブルートゥスも自殺した。
「僭主カエサル」の暗殺の首謀者であったカッシウスとブルートゥスの名声は長く残り、帝政期に入るとカッシウスは「最後のローマ人」と称されることもあった。
一方でカエサルを英雄視していたダンテ・アリギエーリは『神曲』の中でカッシウスをブルートゥス、イエスを裏切ったイスカリオテのユダと共に地獄の最下層に配置している。