エリザヴェータ (ロシア皇帝)
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エリザヴェータ・ペトロヴナ(Елизавета Петровна、1709年12月18日 - 1762年1月5日、在位:1741年 - 1762年)はロマノフ朝の第6代ロシア皇帝。父はピョートル1世(大帝)、母はエカチェリーナ1世。
貴族に担がれ、幼児のイヴァン6世を廃して即位した。内政をシュヴァーロフに任せ、自らは舞踏会や演劇に没頭した。対外積極策を推進し、イギリスやオーストリアと同盟を結んで、スウェーデン、ポーランド、オスマン帝国と対立した。
1741年には、ロシアの皇位継承に絡む内紛に乗じて、スウェーデンがカレリアに侵攻したが、20万人の大軍をフィンランドに派遣し、これを鎮めた。これには、大北方戦争以来のロシアとスウェーデンの国境を巡る問題に起因している。結果、ロシアはカレリア全土を獲得する事になるが、1743年にオーボ(トゥルク)で結ばれた和議で、エリザヴェータはロマノフ家と姻戚関係にあるホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレデリクをスウェーデン王フレデリク1世の後継者に推戴した事で、ロマノフ家は北欧と一層深く関わることとなった。
晩年の1762年、七年戦争においてロシア軍はベルリンへ侵攻し、プロイセン王フリードリヒ2世を敗北寸前にまで追込んだが、エリザヴェータの死去と後継者ピョートル3世の政策転換により和議が結ばれた。
社会的にはロシアの西欧化が進展してモスクワ大学(1755年)などが創設された。
子がいなかったため、妹アンナの子でスウェーデン王家の同族でもあるホルシュタイン=ゴットルプ家のカール・ペーター・ウルリヒ(ピョートル)を皇太子に指名したが、両者は仲が悪かった。
生涯独身を通し、多くの男性愛人を抱えていたというが、初恋の男性の死を悼み、生涯、喪服で過ごしたことはよく知られている。