アララト山
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アララト山(アララトさん)は、トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山(成層火山)。アルメニア語表記はԱրարատ、ペルシア語表記はآرارات、クルド語表記はÇiyayê Araratで、トルコ語ではアール山(Ağrı Dağı)と呼ぶ。主峰の東南にあたる標高3,896mの頂上を小アララト山(Küçük Ağrı Dağı)と呼んでおり、それに対して標高5,137mの主峰は公式には大アララト山(Büyük Ağrı Dağı)という。アルメニアとの国境から32km、イランとの国境から16kmである。
旧約聖書にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山として有名である。頂上から古い時代の木の化石が見つかったり、航空写真から方形の船の跡らしいものが見出だせたりしたことから、それをノアの箱舟の痕跡だとし、それでノアの箱舟伝説が実証されたと主張する人もいる。また、同じく成層火山である日本の富士山と外見が似ていることから、しばしば日猶同祖論の根拠のひとつになっている。
アララト山は古くからアルメニア人の多く居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人虐殺として国際的非難を浴びたが、トルコ政府は虐殺の事実を否認しており、長らく論争となっている(アルメニア人虐殺問題)。
その後、1920年のセーヴル条約に基づき、旧ロシア帝国領側に住むアルメニア人がアララト山の麓まで領土に含めたアルメニア国家を独立させる運動に乗り出したが、旧オスマン帝国領側に獲得した領土はトルコ革命軍によって奪還されてしまい、ロシア側も赤軍の侵攻によってソビエト連邦に組み入れられた。これ以降、アララト山はトルコ領となるが、1991年のソ連解体によって独立したアルメニア共和国はこのトルコとソ連によって引かれた国境を承認していない。独立後のアルメニアの国章は盾の中央にアララト山をあしらっており、アルメニア人虐殺問題とあいまって、領土要求を警戒するトルコとの間で水面下の対立が続いている。