野田佳彦
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野田 佳彦(のだ よしひこ、男性、昭和32年(1957年)5月20日 - )は、平成期の日本の政治家。衆議院議員(4期)。
民主党前国会対策委員長。松下政経塾出身(1期生)。民主党若手・中堅議員のリーダー格の一人である。
生年月日 | 昭和32年(1957年)5月20日 |
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出生地 | 千葉県船橋市 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部 |
学位・資格 | 政治経済学士 |
前職・院外役職(現在) | 千葉県議会議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・文部科学委員会委員 衆・教育基本法に関する特別委員会委員 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
千葉4区 |
当選回数 | 4回 |
所属党派(現在) | 民主党(野田グループ) |
党役職(現在) | 国民運動委員長 千葉県総支部連合会副代表 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館441号室 |
ウェブサイト | 衆議院議員 野田よしひこ |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 県議~民主党代表選挙立候補
昭和32年(1957年)5月20日千葉県船橋市に陸上自衛隊第一空挺団の隊員だった父の長男として生まれる。学生時代は立花隆に憧れてジャーナリストになることを希望していた。昭和55年(1980年)早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業する。
昭和60年(1985年)松下政経塾を卒業し、家庭教師、都市ガスの点検員、私設教育相談所長、青年政治機構副幹事長を経て、昭和62年(1987年)千葉県議会議員選挙に立候補、各新聞社の選挙予想では「野田は独自の戦い」と泡沫候補扱いだったが、当時最年少の29歳で当選する。千葉県議は2期務める。
平成4年(1992年)日本新党結成に参加する。平成5年(1993年)第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で千葉1区から立候補し当選する。日本新党では副代表幹事などを務め細川政権を支えるが、平成6年(1994年)細川内閣は総辞職し、その後羽田内閣経て、野党となった日本新党は解党し、同年新進党結党に参加する。
平成8年(1996年)第41回衆議院議員総選挙では全選挙区最小得票差の105票差で落選した。
平成12年(2000年)第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で当選し、国政に復帰する。民主党総務局長に就任。平成13年(2001年)民主党ネクスト・キャビネット(次の内閣)で行政改革・規制改革担当大臣に就任する。平成14年(2002年)8月菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため同じ松下政経塾の後輩に当たる前原誠司、松沢成文らと「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。9月の代表選に立候補するにあたっては、前原との間でどちらが立候補するかで調整に難航するが、若手を代表する形で野田が立候補する。代表選挙では敗北するものの、選挙戦を通じて認知度を得る。その後、鳩山代表に政策調査会長への就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選挙の出馬を取りやめた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞する。
[編集] 民主党幹部
12月民主党国会対策委員長に就任する。国対委員長としては、審議拒否をしない方針で国会運営に臨んだ。平成16年(2004年)5月次の内閣の財務大臣に就任する。平成17年(2005年)9月の総選挙で民主党が大敗し、辞意を表明した岡田克也党代表の後任選びでは前原誠司を推し、中堅、若手議員をまとめ前原勝利の一因を作る。当初は幹事長に就任予定だったが、菅直人が固辞したために代わりに国対委員長に就任した。平成18年(2006年)2月に永田寿康が引き起こしたライブドア送金指示メール騒動で幹部としての責任をとり国対委員長を辞任した。ただし、その後3月19日に自身の国政報告会で「今は反省し謹慎しないといけないが、自民党とライブドアの闇は存在すると思っている」と述べるなどそれまでの主張そのものは撤回していない。 また、一部の週刊誌や元参議院議員の平野貞夫などは「野田氏が国対委員長を辞任したのは、疑惑の記者に金銭を国対費から計上したからだ」と述べ、野田氏と疑惑の記者との関与を指摘していたが、3月31日に発表された党内の調査によると、国対費用の出納帳から疑惑の記者へ資金計上及び使途不明金の存在はなく。永田氏に「情報提供者が身の危険から脅えているので、海外へ高飛びする費用が必要」と言われ、経費支出を検討したが、国対費用の捻出を弁護士の助言を得て野田氏は永田氏の求めを拒否していたことがわかり、ガセネタであったことが証明された。
[編集] 国会対策委員長としての評価
55年体制から続く自作自演・馴れ合い状態が常識だった国会対策の場に「審議拒否をしない。対案提出路線」を持ち込んだ功績は大きかった。特に審議拒否という戦術は、対外的には与党の横暴に野党が抗議のために審議を中断するように見えるが、裏では国会対策委員の与野党間で「○月○日まで審議を拒否する」といったシナリオが事前に作られており、政権与党の利益と野党の面子を保つために利用されていた。その際、野党の国対幹部に多くの裏金がつぎ込まれていた。それを完全否定したことは特に有意義だったといえる。当時の自民党国対幹部曰く「(共産党を除いて)自民党の国会対策費を受け取らなかった唯一の国会対策委員長」。 だたし、審議拒否の否定を徹底するあまり、国会勢力図の数の論理で押し切られることも多く、前原執行部時代に重要法案の目玉となっていた郵政改革法案の委員会審議を、たった2日で通らせてしまったり、菅直人執行部時代の後期には小沢グループ、旧社会党グループ、旧民社党グループの「国会対策の役割を果たしていない」との不満に押し切られるかたちで審議拒否を発動するケースあった。 以上のように国対委員長としての評価は極端に二分している。
[編集] 政策
沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家璇中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実行支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べたことがある。更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したり、小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判するなど、政治思想に関しては民主党内でも最右翼に分類されるが、行財政改革や社会保障に対する考え方はリベラルと言える。つまり政策ごとに是々非々で判断している政治家であると言える。これは野田に限られたことではなく、松下政経塾出身者に共通する政治スタンスである。
[編集] 人物
- 演説力は「党内ナンバー1」と言われており、2005年の総選挙の際は、候補者の応援演説の依頼が岡田代表(当時)、菅直人、小沢一郎に次いで多かった。衆院選挙に初出馬した際にJR津田沼駅前で12時間連続で選挙演説したことがある。企業献金を受け取らず、個人献金のみで政治活動をしたり、毎朝、駅前での演説を県会議員になる前から20年間毎日続けるなどの活動は、松下政経塾出身者の選挙スタイルのパイオニアになっている。
- 地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立するなど、地元の人材育成にも努めている。
趣味は格闘技観戦。自身も柔道2段の有段者である。超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。実弟は船橋市議会議員の野田剛彦。
- 第162通常国会における施政方針演説で、小泉首相が凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした浜口雄幸首相を自らになぞらえたことに対して、翌日の代表質問の場において原稿なしで痛烈な批判を行っている。以下はその発言。
「きのう、そして今の総理の態度は、私は、これはとんでもないと思います。男子の本懐、浜口雄幸を、施政方針の結びで彼はあやかりながら決意を表明しましたが、浜口雄幸を語る資格はありません。 浜口雄幸は、東京駅で暴漢に襲われてそこで絶命をしたんじゃないんです。彼の真骨頂はその後なんです。大手術をして、そして、経過は悪かったけれども、国会に彼は出てきたんです。国会に出てきて、ロンドン軍縮条約などの大事な案件を、命をかけて説明責任を果たしたんです。目はへこみ、あごは細り、顔色は土色、脂汗を流しながら、彼は命をかけて政治説明のまさに責任を果たした。逃げて、ぼかして、隠して、開き直るあなたとは違う。」
[編集] 略歴
- 船橋市立薬円台小学校、船橋市立二宮中学校、千葉県立船橋高等学校をそれぞれ卒業。
- 1976年:早稲田大学政治経済学部政治学科入学
- 1980年:松下政経塾に入塾(第一期生)
- 1987年:千葉県議会議員に無所属で立候補。当選。
- 1992年:千葉県議会議員に無所属で立候補。再選。
- 1993年:第40回衆議院議員選挙に日本新党公認で出馬。初当選。(1期目)
- 1996年:第41回衆議院議員選挙に新進党公認で出馬。105票差で落選。
- 2000年:第42回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選。(2期目)
- 2002年:民主党代表選挙に若手議員の統一候補として出馬。落選。
- 2002年:民主党の党国会対策委員長に就任。
- 2003年:第43回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選。(3期目)
- 2005年:第44回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選。(4期目)
- 2005年:党国会対策委員長に2度目の就任
- 2006年:党国会対策委員長を引責辞任