尖閣諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。 |
尖閣諸島(せんかくしょとう)は、東シナ海の南西部(八重山諸島の北方)にある島嶼群。尖閣列島ともいう。中華人民共和国では釣魚島、中華民国(台湾)では釣魚台列嶼と呼ぶ。
目次 |
概略
主な島と岩礁は以下の通り。
- 魚釣島(うおつりじま、中国名:釣魚台): 東西に約3.5km、南北に約2kmの島で面積は 3.82 km²。島南側に海抜200 - 250mの急峻な崖が東西に横断している。最高部は標高362m。
- 久場島(くばじま、中国名:黄尾嶼): 面積は 0.91 km²。
- 大正島(たいしょうじま、中国名:赤尾嶼): 面積は 0.06 km²。
- 北小島(きたこじま、中国名:なし。日本名を使用): 面積は 0.31 km²。
- 南小島(みなみこじま、中国名:なし。日本名を使用): 面積は 0.40 km²。
- 沖の北岩(おきのきたいわ、中国名:なし。日本名を使用)
- 沖の南岩(おきのみなみいわ、中国名:なし。日本名を使用)
- 飛瀬(とびせ、中国名:なし。日本名を使用)
尖閣諸島の固有種の絶滅の危機
昭和50年代に民族派団体により持ち込まれたヤギが魚釣島に繁殖してしまい、尖閣諸島の固有種のセンカクオトギリ、センカクハマサジ、センカクモグラ(哺乳類)、センカクナガキマワリ(昆虫類)、タカラノミギセル(陸生貝類)などが絶滅する危機にさらされているので、尖閣諸島からヤギを排除する要望が出ている。
領土問題
1880年代後半から1940年にかけて日本人が建設した船着場や鰹節工場などがあったが、後に無人島となった。1971年に地下資源の可能性が確認されると、島嶼の領有権をめぐって、中華人民共和国中華民国が領有権を主張。
尖閣諸島は沖縄県石垣市に帰属している。中華人民共和国は台湾省宜蘭県に属すと主張している。
尖閣諸島にはこれまでに、指定暴力団住吉会系右翼団体・日本青年社が1978年に魚釣島に灯台を建設以来、その灯台の保守管理をしてきた。2005年2月、日本政府より「魚釣島灯台を正式に海図に記載し、今後は国が灯台の管理をしていきたい」との申し出がなされ、魚釣島灯台は国に移譲された。また、あまり知られていないことだが魚釣島には尖閣神社が建立されている。また、尖閣諸島防衛協会により、日の丸国旗のプレートが設置された。尚、北小島にも灯台がある。海上保安庁は、かつて魚釣島に仮設ヘリポートを設置していたが、中国政府の抗議により、撤去している。
尖閣諸島防衛協会発行の尖閣諸島写真集には興味深い資料がある。中華人民共和国発行の社会科地図で、地下資源が確認される以前の1970年の南西諸島の部には、はっきりと"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてある。しかし、地下資源が確認された以後の1971年の南西諸島の部では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられている。これは中国の東シナ海への覇権確立と、資源の独占、収奪という目論見を如実に表している。
領土問題における日本側の主張
1919年冬、魚釣島に漂着した福建省恵安の漁民31人の救護活動に対し、中華民国駐長崎領事は石垣村長らに感謝状を贈っている。感謝状には尖閣諸島について「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記しており、当時の中国政府が尖閣諸島を日本の領土であると認めていたことは濃厚である。しかし、当時台湾も日本の領土であり、魚釣島が台湾の離島である視点から見ると当時日本の領土であると認めても自然である。
日本は日清戦争中の1895年1月14日から一貫して尖閣諸島を領有している。
尚、中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)において尖閣諸島は日本領として扱われている。
- 詳しくは尖閣諸島領有権問題を参照
外部リンク
- 尖閣諸島の領有権についての基本見解(外務省)
- 尖閣諸島(第11管区海上保安本部)- 日本人による開拓を証明する船着場や鰹節工場の写真がある。
- 1920年に中華民国から送られた感謝状(画像)
地形図
久場島 | 大正島 | |||
沖ノ北岩 | 沖ノ南岩 | |||
魚釣島 | 飛瀬 | 北小島・南小島 |