政治経済学部
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政治経済学部(せいじけいざいがくぶ)は、政治学・経済学を中心として社会科学を学ぶ大学の学部である。政経学部を正式名称としている大学もある。
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[編集] 概要
ドイツの慣習に合わせて、政治学を法学部の一部門と捉える考え方が主流であったなか、イギリスの慣習を採用して、早稲田大学で経済学とともに政治を学ぶ学部として「政治経済学部」は発足した、と同大学は主張している。実際、イギリスの名門ロンドン大学のLSEの正式名称はLondon School of Economics & Political Scienceであり、学問構成も日本における政治経済学部と近いものである。ジェイムズ・ミルの『政治経済学要綱』(1821初版,London)は、Elements of political economyの翻訳であることを付記しておこう。
明治大学は政治経済学部を設けていたが、学習院大学ではそのわずか11年後の1964年 政経学部を法学部(法学科、政治学科)と経済学部(経済学科)に改組している。 第二次世界大戦後において早稲田大学と明治大学の政治経済学部は異なる特色を持つようになる。早稲田大学政治経済学部では行政学と近代経済学を主とし、明治大学政治経済学部は社会学とドイツ歴史学派経済学を主とした学問体系を築いた。 その後は、どの大学でも政治学と経済学の両方を学べる学部という位置づけになっており、経営学まで網羅している大学もある。
[編集] 早明間の政治経済学論争
早明両大学は古くから政治経済学部を持っていたこともあり、学問的対立が存在した。特に経済学の分野では学問体系が対立関係にあることからこの二学部に所属する学者の間で経済学論争が起き、旧来から継承されていた近代経済学と歴史学派経済学の根本的、具体的議論が繰り広げられた。
両大学ともに、学生運動の時期はマルクス経済学が主導権を握っていたこともあったが、冷戦構造の終焉を経て近代経済学の確立が目指されることになった。
具体的な論争内容は、60年代以降の学生を中心とした「政治経済学研究会」や教授陣の論文雑誌である「政経論叢」において中心の論点となった事項が数点挙げられる。
- 経済学は、状況に適応した施策を求めるものであるのか(早稲田)、理論追求のものであるべきか(明治)という点。これはまさに景気動向に配慮した形で適応的に政策を実行すべきか、貧富の格差の是正など社会的不安の払拭という思想的理念を政策に移すのかという、対立が存在した。
- 政治経済学に関する議論。早稲田では政治学と経済学の範疇をより専門化、実証化させるべきであるとの合理主義的立場を重視し、明治では社会学や人類学を背景とした、より広範な視点を摂取しながら、政治学と経済学の確立をすべきであるとの理念的立場を重視した。この近代の代表的な構図は、アメリカのコロンビア大学(専門化重視)とシカゴ学派(広範性重視)の違いを反映している。しかし、シカゴ学派には早稲田の藤原保信の政治学がその系統を担っていたし、アメリカの新古典派経済学の実証主義経済政策論を明治で教授した赤松要の流れをくむ赤松学派が存在していたため、政治経済学の対立は、部分的であったという評価もある。明治大学の後藤昭八郎や毛馬内勇士はその後継者であり、日本経済政策学会の理事をつとめており、その中心的存在である。
- マーシャル経済学の日本流入以後、経済学の方法論を合理的認識のもとに置くか、理念的認識のもとに置くかという議論。早稲田は戦後以降、アメリカで進展を見る新古典派経済学を吸収し教育に活かしたのに対し、明治はドイツ系経済学、わけてもマックス・ヴェーバーの歴史学派経済学やシュモラーの歴史学派経済学を重視している。これも、もう一つの対立構図である。特に早稲田の実証的経済学の導入は効果的であった。明治は歴史学的・解釈学的方法論を主とした研究を追究するべきとの考えから、早稲田とは別の独自路線を歩んでいくことになる。
現在では明治大学政治経済学部でも近代経済学が主であり、マルクス経済学系の教員は一名である。これは早稲田大学政治経済学も同様である。カリキュラムを見ても「社会主義経済学」、「ロシア東欧政治論」が必修ではない「応用科目」として存在している程度である。(注:「社会主義経済学」は現在、担当教員が居らず休講中である。)また明治大学では地域行政学科が設置され、行政学にも力を入れるようになっている。
1990年代以降、国際弁護士でエコノミストの湯浅卓等をオブザーバーとして多くのシンポジウムやディスカッションを両大学のゼミ連携で行っており、大学間の論争は影を潜めている。今日的には環境学・平和学の展開を背景にレギュラシオン学派を引く経済理論の考究の様相も呈している。政治学においては、早稲田大学名誉教授の内田満や明治大学名誉教授の岡野加穂留との共著出版や大学間兼担講師を相互に引きうけるなど、むしろ協調的交流さえうかがえる。対立構図はなくなった。
なお現在では、近代経済学においては早稲田と明治ともにほぼ同数の教員が揃っている。それらの教員は、早稲田大学では大和瀬達二、明治大学では池田一新の後継者である。大和瀬は寡占理論の権威であり、また池田はシュタッケルベルクの愛弟子にあたる。大和瀬はE・シュナイダー、池田はシュタッケルベルクの翻訳を日本でいちはやく行なったことで知られている。大和瀬はその著『寡占価格の理論』で早稲田大学経済学博士、池田はその論文「不完全競争理論の体系化のための試論」で明治大学経済学博士となっている。さらに、現在では早明ともにそれぞれマルクス経済学の教員を一名しか置いておらず、早稲田では藤森頼明、明治では飯田和人が講義・研究にあたっている。これらの実態を踏まえると、早明政経論争はもはや過去のものとなっており、現在ではそのような論争を知らない世代の若手教員も多くなってきている。
[編集] 他大学の状況
早明間では学者間の論争を中心とした学問体系となっていたが、他の大学の政治経済学部は政治学・経済学を結合させた研究・教育を行うという立場を取っていた。
早明以外ではもっとも古い政経学部を持つ拓殖大学(第二次世界大戦前には専門部という名称であった)はもともと台湾への入植者に関する教育を実施する大学であったことから学問的な論点もさることながら実際に拓殖地においてどのように行政と経営を実施するかということを研究・教育する学問体系を取っていた。さらにこうした視点から法学まで内包した科目体制を取っており、現在でも法学は政治学の一分野としてのカリキュラム編成がなされ、学科名は法律政治学科である。
また、戦後の開設となる東海大学と国士舘大学では早くから経済学と政治学を有機的に連携させる体制を取っており、現在多くの大学が目指している学際志向を当初から持っていたといえる。
[編集] 授与される学士号
授与する学士の代表例としては、政治学科では「政治学士」、経済学科では「経済学士」が主流であったが、学士の表記が「学士(専攻分野)」というものに改正され、今日では「学士(政治学)」、経済学科では「学士(経済学)」などが主に授与される例となっている。近年は学科名も多様化しており学位名称も多様化の傾向にある。