藤原定子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原定子(ふじわらのていし(さだこ)、貞元2年(977年) - 長保2年12月16日(ユリウス暦1001年1月13日))は、平安時代、第66代一条天皇の皇后。(享年は同時代の公卿藤原行成の日記『権記』による。『日本紀略』『栄花物語』は25とする)
関白内大臣正二位藤原道隆の長女、母は式部大輔高階成忠の女・正三位貴子。正二位内大臣伊周(974年 - 1010年)、正二位中納言隆家(979年 - 1044年)は同母兄弟。
正暦元年(990年)1月25日、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し、まもなく従四位下に叙せられ、ついで女御となる。同年10月5日、皇后に冊立され「中宮」を号した。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は輝かしい栄華を謳歌した。
定子の母貴子は円融朝に掌侍を勤めて高内侍と称された人で、女ながらに漢文を能くし、殿上の詩宴にもに招かれるほどであった。また、定子の父道隆は、「猿楽言」(冗談)を好み酒を愛した陽気な性格の人だという。こうした父母の血を享けて、定子は聡明な資質を持ち、和漢の才に通暁したばかりでなく、明朗快活な性格に育ったらしい。正暦四年頃から定子の死去まで彼女に仕えた女房・清少納言が著した随筆『枕草子』は、生き生きとした筆致で、彼女の人格的魅力を今日に伝えている。従弟にあたる夫・一条天皇との仲も至極良好で、機知を愛し風雅を重んじる一条朝の宮廷の風潮は定子に負うところが大きい。
しかし、長徳元年(995年)4月10日、関白であった定子の父道隆が死去すると、政権は国母・東三条院詮子の介入により定子の叔父道兼、ついで道兼が急死するとその弟道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は危ういものとなった。さらに、翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こして左遷され(長徳の変)、定子も内裏を退出し里第二条宮に還御するが、目の前で邸に逃げ込んだ兄弟が検非違使に捕らえられることを見て、あまりの衝撃に自ら鋏を取り落飾した。痛ましいことに、中宮はこの時身重であったという。
中宮の出家は5月1日のことで、この後、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなど、不幸は続いた。
その後、長徳三年(997年)4月になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れた。中宮御所は清涼殿からほど遠い中宮職の御曹司と決められたが、それでも定子が出家の身で禁裏へ入った事への公卿の顰蹙を反映して、藤原実資はその日記『小右記』長徳三年六月二十二日条に、「天下不甘心」の語を記した。
この再入内で定子は実質的に還俗し、長保元年(999年)11月7日、一条天皇の第一皇子・敦康親王(999年 - 1018年)を出産。天皇の喜びは大きかったが、先に長女彰子を入内させていた道長はこのことで焦慮し、彰子の立后を謀るようになる。東三条院詮子の支持もあって、長保二年(1000年)2月25日、女御彰子が新たに皇后に冊立され「中宮」を号し、先に「中宮」を号していた皇后定子は「皇后宮」に号され、史上はじめての「一帝二后」となった。同年の暮れ、定子は第二皇女・び子内親王(1000年 - 1008年、び=女偏に美)を出産して崩じた。生前の希望から鳥辺野の南のあたりに土葬された。陵墓は今、京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵(とりべののみささぎ)がそれとされている。
死に臨んで定子が書き残した遺詠「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」は、『後拾遺和歌集』に哀傷巻頭歌として収められ、また、鎌倉時代初めに編まれた小倉百人一首の原撰本「百人秀歌」にも採られている。
定子の死後、中関白家(父と弟の間にあって関白になった道隆家の呼称)は没落の一途をたどった。定子が儲けた敦康親王が、后腹の第一皇子でありながら即位できなかったのも、それゆえである。
カテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目 | 人名関連のスタブ項目 | 平安時代の人物 | 藤原氏 | 平安・鎌倉時代の皇族 | 977年生 | 1001年没