源俊頼
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源 俊頼(みなもと の としより、1055年 - 1129年)は平安時代後期の歌人。父は源経信。母は源貞亮の娘。子に俊恵がいる。
1111年(天永2年)従四位上木工頭で退官。はじめ堀河天皇近習の楽人として活動したが、その後、堀河院歌壇の中心人物として活躍した。多くの歌合に作者・判者として参加し、「堀河院百首」を企画・推進した。1124年(天治元年)白河院の命により「金葉和歌集」を撰集。藤原基俊とともに当時の歌壇の中心的存在であった。歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。歌学書に「俊頼髄脳」、家集に「散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)」がある。
[編集] 和歌
- 小倉百人一首
- うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを(「千載和歌集」恋二・707)
- 百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)
- 山桜 咲きそめしより 久方の 雲居に見ゆる 滝の白糸(「金葉和歌集」春・50)
百人秀歌と小倉百人一首の両方に採られている歌人で、異なる歌が採られているのは俊頼のみである。