藤原隆家
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藤原隆家(ふじわら の たかいえ、天元2年(979年) - 寛徳元年正月1日(1044年2月2日))は、平安時代の貴族、武将。極官は正二位中納言。一条天皇の摂関を務めた藤原道隆の四男。母は高階成忠の娘・貴子。伊周、定子の同母弟。幼名は阿古。
永祚元年正月29日(989年)、11歳で元服し従五位下侍従、正暦5年8月28日(994年)、非参議・従三位に叙され公卿に列す。父・道隆の死に先立ち、長徳元年4月6日(995年)に権中納言に至るが、翌2年4月24日、花山法皇奉射・東三条院呪詛・太元帥法を行った罪状三ヶ条を以って出雲権守に左遷された(内大臣だった同母兄伊周は大宰権帥に左遷)。翌年召還され、兵部卿に任じた後、長保4年9月24日(1002年)、権中納言に復した。寛弘4年正月20日(1007年)従二位、同9年正月27日按察使、長和3年11月7日(1014年)任太宰権帥、翌4年4月21日正二位と、徐々に宮廷社会で復帰していったが、官はついに中納言に止まった。
姉定子の生んだ敦康親王の立太子を拒否した一条天皇を「人非人」と非難したり、権力者道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子の皇后宮大夫を引き受けたりするなど、気骨のある人物として知られた。三条天皇代、眼病の治療の為、進んで大宰権帥を拝命し九州大宰府に下り、在任中の寛仁3年(1019年) 、当地で刀伊の入寇を撃退し武名を挙げた。
天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事や、姉中宮の女房清少納言との応酬など、『大鏡』『枕草子』にも多彩な逸話が伝えられている。坎軻数奇なる一生だったのにもかかわらず、逞しく誇り高く生きた彼の気概には感嘆するのみである。
[編集] 隆家の子孫
隆家の次男経輔(1006年-1081年)は、正二位権大納言となって水無瀬大納言と称せられた。経輔の5世孫にあたる従三位忠隆女は近衞家の祖である基実の室となって基通を生み、その兄弟信頼は後白河上皇の寵臣で平治の乱の首謀者として有名。同じく経輔の5世孫にあたる修理大夫信隆女七条院殖子は後鳥羽院生母であり、その弟坊門信清は内大臣の位にまで昇った。隆家流は女系を伝って皇室・摂家にその血を残し、子孫は後世、水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の五堂上家を出して明治維新に至る。なお、南北朝時代に懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔と自称した。
[編集] 関連
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