藤原俊成
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藤原 俊成(ふじわら の としなり、1114年(永久二年)-元久元年11月30日(1204年12月29日)は平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人。名はしゅんぜいとも読まれる。はじめ顕広(あきひろ)を名乗ったが後に改名した。法名は釈阿。『千載和歌集』の編者として知られる。息子定家とともに、歌の家としての御子左家の名を確立した。
藤原道長の子孫にあたり、藤原氏北家長家流(御子左家)に属する。権中納言藤原俊忠の三男、母は伊予守藤原敦家女。通称を五条三位(ごじょうのさんみ)。皇太后宮大夫正三位にまで進み、息子藤原定家の『小倉百人一首』には皇太后宮大夫俊成として採られる。
平安末期の無常観を反映しつつ、万葉集や古今集の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を確立し、当世風の新奇性を重視した六条流の歌風と当時の歌壇を二分した。和歌所寄人をつとめ、後白河院の院宣で単独で『千載和歌集』を編んだ。
歌学書には、『古来風躰抄』(後白河院の皇女である式子内親王に奉ったもの)のほか、『俊成卿和字奏状』『古今問答』。選歌集に『俊成三十六人歌合』。家集に『長秋詠藻』『俊成家集』。『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。また九条家の藤原良経が催した六百番歌合の判者をつとめた。
指導者としても定評があり、九条家の歌の指導をおこなうほか、息子定家をはじめとして、門下に寂蓮、藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出した。『平家物語』「忠度都落」にも門下のひとり平忠度とのエピソードが描かれる。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1123年(保安4)、父俊忠薨去により、葉室藤原顕頼の養子となり、顕広と名乗る。
- 1127年(大治2)1月19日、従五位下に叙せられ、美作守に任官。
- 1132年(天承2)閏4月4日、加賀守に遷任。
- 1137年(保延3)12月16日、遠江守に遷任。
- 1142年(永治2)1月23日、遠江守を重任。
- 1145年(久安元)11月23日、従五位上に昇叙し、遠江守如元。 12月30日、三河守に遷任。
- 1149年(久安5)4月9日、丹後守に遷任。
- 1150年(久安6)1月6日、正五位下に昇叙し、丹後守如元。
- 1151年(久安7)1月6日、従四位下に昇叙し、丹後守如元。
- 1152年(仁平2)12月30日、左京権大夫に転任。
- 1155年(久寿2)10月23日、従四位上に昇叙し、左京権大夫如元。
- 1157年(保元2)10月22日、正四位下に昇叙し、左京権大夫如元。
- 1161年(応保元)9月19日、左京大夫に遷任。
- 1166年(永万2)1月12日、左京大夫を辞任。 改元して仁安元年8月27日、従三位に昇叙。
- 1167年(仁安2)1月28日、正三位に昇叙。 12月24日、諱を俊成と改める。
- 1168年(仁安3)12月12日、右京大夫に任官。
- 1170年(嘉暦2)7月26日、皇后宮(後白河の皇后藤原忻子)大夫を兼任。
- 1171年(嘉暦3)1月18日、備前権守を兼任。
- 1172年(承安2)2月10日、皇后が皇太后となったため、皇后宮大夫から皇太后宮大夫に異動。
- 1175年(承安5)12月8日、右京大夫を止む。
- 1176年(安元2)9月28日、出家。法名:釈阿
- 1204年(元久元)11月30日、薨去。享年91