筑後川
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筑後川 | |
---|---|
久留米市域内一角からの下流方 |
|
延長 | 143 km |
水源の標高 | m |
平均流量 | m³/s |
流域面積 | 2860 km² |
水源 | 斧隠原野(熊本県) |
河口 | 有明海 |
流域 | 熊本県・大分県・ 福岡県・佐賀県 |
筑後川(ちくごがわ)は、九州北部を東から西に流れ、有明海に注ぐ川である。筑後川水系の本流で一級河川。長さ143km、流域面積2860 km²。
利根川、吉野川とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎の別名で呼ばれることもある(順位争いで「筑紫三郎」といわれることもある)。
目次 |
[編集] 地理
熊本県阿蘇郡南小国町の阿蘇山の外輪山、斧隠原野(おのがくれげんや)に源を発する。大分県に入り、日田市で玖珠川を併せ西流。玖珠川との合流点より上流を大山川と称し、合流後日田市内にあっては三隈川と称される。福岡県に入り、筑紫平野を貫流する。久留米市西部あたりからは福岡県と佐賀県をまたぐように南西方向に流れるが、流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い。
[編集] 筑後川開発史
筑後川は1636年に河川名が現在の「筑後川」となるまでは「千歳川」や「筑間川」等と呼ばれていたが、「一夜川」とも呼ばれていた。その意味は洪水により一夜にして流域が荒廃してしまうとの意味であり、筑後国の租が1年免除されたと記録される806年の洪水から近代河川整備が本格的に行われるようになった1889年(明治22年)の洪水までの間には、実に183回もの大水害が発生している。これは本流・支流の水源地の地質が安山岩等の透水性の低い火山岩地質である事、上流部が急勾配である反面下流は緩勾配で下流部は溢水し易い地形が災いしている。だが、流域は肥沃な穀倉地帯でもあり、流域の治水・利水は古くから間断なく行われている。
[編集] 開拓と藩政下の治水
筑後川の開発が積極的に行われるようになったのは安土桃山時代末期の中州開拓からである。1592年緒方将監は道海島を開拓する為に入部し、肥前国住民からの妨害にも負けず1610年に開墾に成功した。1605年からは肥後菊池氏の末裔である菊池十左衛門が浮島を、1610年からは三潴郡住人三郎左衛門が大野島の開拓を行い新田を開墾した。これらの島は筑後国領域と認定され、現在でも福岡県の一部となっている。
関ヶ原の戦いにより筑後は小早川秀包・立花宗茂が改易され、石田三成捕縛の大功で田中吉政が柳川32万石の領主として1601年入部、吉政は早くも筑後川の改修に取り組んだ。1606年から13年の歳月を掛けて瀬の下捷水路を開削し、筑後川の流路を変更した。田中氏改易後久留米21万石の藩主となった有馬豊氏は引き続き河川整備を行い、寛永年間に(1624年~1641年)安武堤防を築堤した。
一方鍋島直茂の重臣で中世土木史にその名を刻む成富茂安は蛤岳から那珂川、大野川(那珂川分流)へ流下する水を、水路により山地の周囲を回らせて田手川へ導水する「蛤水道」を1626年に完成させ、神埼郡の灌漑を図った。「蛤水道」には、同水道のために大野川が枯れたため、福岡藩側の「お万」と言う女が抗議の為に築堤を壊そうとし、母子ともに滝に身を投げたと言う悲話も伝わる(当時、水争いは命懸けであった)。その後、「野越し」と言うオーバーフローを設け、福岡藩側下流にも配水することとした。
又、茂安は三養基郡(注)を水害から守る為1643年に筑後川右岸に12kmの二重堤防を築堤した。これは「千栗(ちりく)堤防」と呼ばれ現在は河川改修により残っていないが、築堤以来300年近くに亘り破堤等が起こらず、地域住民を水害から守った。このため茂安の名は同郡では大変な尊敬をもって迎えられ、かつて同郡内には茂安の名にちなんだ北茂安村・南茂安村(いずれも現在の三養基郡みやき町の一部)が存在したほどであった。
(注)現在の郡名。当時は三根郡・養父郡・基肄郡の3郡に分かれていた。
又、水制として水刎・荒籠等が各所に設置されたが、荒籠は水流に対して直角に設置して水流を弱める為対岸の護岸を削る副作用があり、これが原因で藩領を接する各藩(上流側:福岡藩・久留米藩。下流側:佐賀藩・柳川藩)が対立する事もあった。
[編集] 筑後川四大取水堰~庄屋達の苦闘~
16世紀後半から17世紀に掛けて、流域各藩では新田開発を積極的に実施し年貢収穫を高めようとした。筑後川ではこの時期「筑後川四大取水堰」と呼ばれる固定堰が相次いで建設された。
嚆矢と成ったのは1674年に建設された大石堰で、浮羽郡の5人の庄屋(山下助左衛門・栗村次兵衛・本松平右衛門・重富平左衛門・猪山作之丞)が久留米藩に用水開削を懇願したもので、浮羽郡郡奉行・高村権内の助力を得て家老・丹羽頼母を総指揮とする藩事業として着手された。続く1676年には田代重栄によって筑後川中流部・夜明付近の獺の瀬からトンネルを掘って浮羽郡へ導水する袋野堰が完成し、465haの新田開発を成功させた。更に1712年には三井郡の4庄屋(高山六右衛門・秋山新左衛門・中垣清右衛門・鹿毛甚右衛門)の懇願を受けた第6代久留米藩主・有馬則維が、草野又六・野村宗之丞に命じ恵利堰建設を開始した。この間福岡藩による反対運動があり工事は度々中断したが、早田村善左衛門の命がけの活動等により事業は完成。1,428haの新田開発が可能となった。恵利堰建設に反対した福岡藩も古賀百工の活躍により1790年に山田堰・堀川用水を建設し、1825年の長田湿抜工事等により150haの新田開発を行った。山田堰建設に伴い建設されたのが朝倉三連水車であり、現在でも尚稼動している。
この4大取水堰(大石堰・袋野堰・恵利堰・山田堰)は凶作に苦しむ農民を救済する為に庄屋達が体を張った命がけの事業であり、袋野堰を除いた3堰は現在でも流域の農地を潤している事を鑑みれば、彼らの行動は大いに賞賛されるものである。反面、筑後川の治水・利水は藩領を接する福岡藩・佐賀藩・久留米藩・柳川藩各藩の思惑により不統一に治水・利水が行われ、恵利堰の一件の様に藩同士の紛争も絶えなかった。そしてこの河川整備の不整合が、後々水害を惹起する原因ともなったのである。
[編集] 舟運と河川改修
筑後川は藩領防衛の観点により架橋は厳禁であった。この為水運が発達、両岸を渡す舟運は最盛期には62箇所の渡しを数える程になった。又、上流の日田から筏運でスギが下流に運搬され、木材集積地となった筑後大川(福岡県大川市)は木材加工業が発達し、現在でもタンスの主要生産地となっている。
こうした水運の発達もあって、近代の筑後川開発はこの辺も考慮に入れて行われた。筑後川は1884年(明治17年)より内務省直轄河川事業の対象となり、1886年(明治19年)より第1次筑後川河水改修事業が河口から大分県日田市間で開始されたが、主なものは舟運強化の為の低水工事が中心であった。又淀川・木曽川・九頭竜川等全国各地の河川改修に尽力したヨハニス・デ・レーケは筑後川でも河川改修に携わったがこの時も主眼は舟運強化であり、筑後川河口~早津江川間6kmに断続的な導流堤を建設し河口の堆砂を防除して水運の便を図った。
だが1889年(明治22年)流域に未曾有の大水害が起こり、これを契機に1923年(大正12年)より第2期筑後川河水改修事業が行われた。第2期では本支流の引堤の他、第1期で着手された筑後川本川開削工事が本格的に施行され、金島・小森野・天建寺・坂口の4捷水路を開削して河道を直線化し流下能力の向上を図った。この事業は幕末に田中政義が立案したもので、自費を投じ筑後川の1/1,000模型を作成し効果を実証した。尚、この模型は日本初の河川水利模型実験である。この捷水路により総延長は9km短くなった。水運に関しては1935年(昭和10年)に国鉄佐賀線筑後大川~諸富間に筑後川昇開橋が竣工し、船舶通過時には橋中央が上方に稼動した。
水力発電に関しては1913年(大正2年)玖珠川に女子畑発電所が建設されたのが最初である。最大出力26,750kWは完成当時全国4位・西日本最大級であり、「東の猪苗代、西の女子畑」とも呼ばれた。その後女子畑第二発電所が増設されていくものの、筑後川水系で本格的ダム式発電所は殆ど建設されなかった。
[編集] 昭和28年6月豪雨と筑後川総合開発事業
戦後、筑後川の治水・利水を語る上で欠かせないのは1953年(昭和28年)6月の梅雨前線豪雨である。この時は筑後川上流で500mm以上の豪雨が降り注ぎ、久留米市を始め筑後川流域は有史以来最悪の水害を蒙った。特に、中流部の夜明地点に九州電力株式会社が建設していた夜明ダム(重力式コンクリートダム、15.0m)は、両岸が激しい水流によって崩落し、ダム決壊という事態を招いた。この事は後に調査委員会が設けられる等一時問題となったが、根本的な問題はダム決壊よりも河川整備の不備であった。
建設省(現国土交通省九州地方整備局)は1949年(昭和24年)の「河川改訂改修計画」に拠って1957年(昭和32年)「筑後川水系治水基本計画」を策定し、この中で多目的ダムによる洪水調節が必須との結論が出て、その結果筑後川本川(大山川とも呼ばれる流域)に松原ダム、左支津江川に下筌ダムを建設して洪水調節を図り、1973年(昭和48年)に両ダムは完成した。又、中流部においては1961年(昭和36年)より千年分水路・原鶴分水路・大石分水路の「三大分水路」が建設され1979年(昭和54年)に事業が完成している。
下流域では1966年(昭和41年)より久留米市において東櫛原大規模引堤事業が着手され、住民の移転や西日本鉄道大牟田線等4橋梁の架け替え等に難航しながらも1993年(平成5年)に完成している。佐賀市を流れる佐賀江川については1980年(昭和55年)の水害で激甚災害に指定された事を契機に「佐賀江川激甚災害対策特別緊急事業」(激特事業)に指定され、排水機場の整備や蛇行部の直線化が行われた。現在は支流の城原川に城原川ダム、巨瀬川に藤波ダムが治水専用ダムとして建設が進められている。
[編集] 北部九州の水がめとして
利水については、平野部では従来より大石堰・恵利堰・山田堰による農業用水の取水が中心であったが、台地では地下水を揚水機によって汲み上げる取水が行われていた。だが、無秩序に揚水機が1,400台も設置された結果、地下水の減少による水不足や揚水機の維持管理費の高騰が問題となり、こうした問題を解決すべく「国営両筑平野用水事業」や「国営耳納山麓土地改良事業」等が計画された。
一方、福岡市・久留米市・佐賀市等の都市部では急速に人口が増加し上水道の水需要が逼迫するようになった。こうした中で1962年(昭和37年)「水資源開発促進法」・「水資源開発公団法」が施行され水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が発足。筑後川は1964年(昭和39年)に水資源開発水系に指定され「筑後川水資源開発基本計画」(フルプラン)が策定された。これを元にダム・用水整備を進め、1975年(昭和50年)には小石原川に江川ダムが建設され両筑平野用水事業が完成。1979年(昭和54年)には福岡導水事業の水源として佐田川に寺内ダムが建設され、1978年(昭和53年)の福岡大渇水において暫定的に運用した。
その後福岡導水事業は1983年(昭和58年)に通水したが1985年(昭和60年)の筑後大堰(筑後川)、1993年(平成5年)の合所ダム(隈上川)等の完成により事業の拡充整備が進み、福岡市・太宰府市・筑紫野市等9市9町に上水道を供給している。下流部では筑後大堰を水源として農林水産省九州農政局の「国営筑後川下流土地改良事業」と共同して「筑後川下流用水事業」を施行した。筑後川下流用水は久留米市・佐賀市・大牟田市・鳥栖市等9市13町村の上水道・農業用水等を供給している。
だが1994年(平成6年)の福岡渇水では給水車の出動こそ無かったが290日に及ぶ給水制限が行われた為、対策として水源整備が更に進められ、現在では小石原川ダム(小石原川)・大山ダム(赤石川)の建設が進められている。大石堰・山田堰・恵利堰は現役で稼動しているが袋野堰は1954年(昭和29年)の夜明ダム完成により現在は水没している。
[編集] 宿痾・住血吸虫の撲滅
筑後川流域は、利根川下流域・甲府盆地と並んで日本住血吸虫症の浸淫地であった。宿主のミヤイリガイが多く分布している為で、多くの流域住民が病に倒れた。1983年、筑後大堰の建設を機に「日本住血吸虫撲滅作戦」が流域で展開され、河川を管理している建設省・水資源開発公団は低水護岸の整備や高水部の河川整備を行い湿地帯を無くし、流域市町村も河川敷の清掃等を行ってミヤイリガイの撲滅を図った。この結果1990年(平成2年)にはミヤイリガイは撲滅され安全宣言が出されたが、調査の漏れ等をなくす為10年間の追跡調査を行なった末、2000年(平成12年)に終息宣言が発表され、長年住民を苦しめた日本住血吸虫症は九州から根絶された。
[編集] 河川行政への警鐘~蜂の巣城紛争~
この様に筑後川では治水・利水の為の多くのダムが建設されたが、一方で早くから公共事業の進め方に対する問題が浮き彫りとなった。その代表が松原ダム・下筌ダム建設に伴う「蜂の巣城紛争」である。1957年(昭和32年)よりダム建設は計画されたが、九州地方建設局の住民説明会で生活再建策が何も説明されなかった事に住民が反発、翌年には室原知幸を中心に「絶対反対決議」が為され、建設省に対する徹底抗戦の意思表示として下筌ダムサイト地点に「蜂の巣城」を建設、籠城した。この間強制執行に対する流血事件や建設差し止めの行政訴訟等、公共事業と基本的人権(憲法第29条財産権)の侵害という問題を室原は行政に突きつけ続けた。蜂の巣城は1964年に落城したものの、室原の抵抗は彼が亡くなる1970年(昭和45年)まで続いた。
だが、この紛争は水没地域の救済制度や河川総合開発事業の不備を行政に認めさせた点で大きなエポックメイキングであった。室原没後の1973年、水没地域の計画的な産業基盤整備・振興を行って地域住民の生活安定・福祉向上を図る目的で「水源地域対策特別措置法」(水特法)が施行され、河川法・土地収用法・特定多目的ダム法の改正も同時に行われた。13年に亘る蜂の巣城紛争は、河川行政が開発優先から地域との共生へ視点を転換した曲がり角であり、以後のダム建設に多大なる影響を与えた。室原氏の「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」という言葉は、現在でも補償交渉の基礎として生き続けており、1990年代以降の公共事業見直しはこの延長線上にある。筑後川でも玖珠川最上流部に建設予定だった猪牟田ダム(ロックフィルダム、125.0m)が建設中止となった。
又、ダムを始めとする河川開発は盛んだった舟運にも影響を与え、日田から大川へスギを運搬した筏運は夜明ダムの完成で陸上輸送に取って代わった。国道整備等に伴う陸上輸送の発達は渡し舟の衰退に繋がり、1994年(平成6年)の下田の渡しを最後に舟運は消滅した。しかし近年では水運に対する見直しの機運も高まり、筑後川の水運を復活させようという動きも見られている。
[編集] 筑後川水系の主要河川
[編集] 筑後川水系の河川施設
筑後川の河川開発は江戸時代中期の4大取水堰に始まるが、流域4藩(福岡藩・佐賀藩・久留米藩・柳川藩)による統一性の無い治水・利水施設の乱立によって水害の被害が却って拡大する皮肉となった。明治の改修を経て1953年(昭和28年)の筑後川大水害を機に、建設省(現国土交通省九州地方整備局)による「筑後川総合開発事業」によるダム・放水路・堤防といった治水整備が行われた。又、1964年(昭和39年)に「水資源開発促進法」に伴う水資源開発水系に指定され、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)による利水施設が系統的に建設された。水力発電に関しては大正時代の女子畑発電所を皮切りに主に玖珠川流域で発電施設が建設されたが大規模な電源開発までには至らず、1954年(昭和29年)の夜明ダムを最後に建設は行われなくなった。
[編集] 河川施設一覧
一次 支川名 (本川) |
二次 支川名 |
三次 支川名 |
ダム名 | 堤高 (m) |
総貯水 容量 (千m³) |
型式 | 事業者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
筑後川 | - | - | 松原ダム | 83.0 | 54,600 | 重力式 | 国土交通省 | (大山川) |
筑後川 | - | - | 大山川ダム | - | - | 重力式 | 九州電力 | 小堰堤 |
筑後川 | - | - | 島内可動堰 | 堰 | - | 可動堰 | 国土交通省 | (三隈川) |
筑後川 | - | - | 夜明ダム | 15.0 | 4,050 | 重力式 | 九州電力 | |
筑後川 | - | - | 山田堰 | 堰 | - | 固定堰 | 土地改良区 | 筑後川四大堰 |
筑後川 | - | - | 恵利堰 | 堰 | - | 固定堰 | 土地改良区 | 筑後川四大堰 |
筑後川 | - | - | 大石堰 | 堰 | - | 固定堰 | 土地改良区 | 筑後川四大堰 |
筑後川 | - | - | 原鶴分水路 | - | - | 放水路 | 国土交通省 | |
筑後川 | - | - | 大石分水路 | - | - | 放水路 | 国土交通省 | |
筑後川 | - | - | 千年分水路 | - | - | 放水路 | 国土交通省 | |
筑後川 | - | - | 筑後大堰 | 13.8 | 5,500 | 可動堰 | 水資源機構 | |
津江川 | - | - | 下筌ダム | 98.0 | 59,300 | アーチ式 | 国土交通省 | |
赤石川 | - | - | 大山ダム | 99.0 | 19,600 | 重力式 | 水資源機構 | 建設中 |
玖珠川 | (河道外) | - | 女子畑第一調整池 (第2号) |
20.3 | 312 | アース | 九州電力 | |
玖珠川 | (河道外) | - | 女子畑第一調整池 (第3号) |
26.7 | 312 | アース | 九州電力 | |
玖珠川 | 地蔵原川 | - | 地蔵原ダム | 21.8 | 1,858 | アース | 九州電力 | |
玖珠川 | 松木川 | - | 松木ダム | 48.5 | 1,300 | 重力式 | 大分県 | |
玖珠川 | 女子畑川 | - | 女子畑第二調整池 | 34.3 | 392 | 重力式 | 九州電力 | 土木遺産 |
高瀬川 | - | - | 高瀬川ダム | 25.6 | 273 | 重力式 | 九州電力 | |
隈上川 | - | - | 合所ダム | 60.7 | 7,660 | ロックフィル | 農林水産省 | |
佐田川 | - | - | 寺内ダム | 83.0 | 18,000 | ロックフィル | 水資源機構 | |
小石原川 | - | - | 小石原川ダム | 129.0 | 40,000 | ロックフィル | 水資源機構 | 計画中 |
小石原川 | - | - | 江川ダム | 79.2 | 25,326 | 重力式 | 水資源機構 | |
巨瀬川 | - | - | 藤波ダム | 52.0 | 2,515 | ロックフィル | 福岡県 | 建設中 |
宝満川 | 山口川 | - | 山神ダム | 59.0 | 2,980 | 複合式 | 福岡県 | |
宝満川 | 山口川 | 卯ヶ原川 | 山口調整池 | 60.0 | 3,900 | ロックフィル | 水資源機構 | |
広川 | - | - | 広川ダム | 29.2 | 990 | ロックフィル | 福岡県 | |
安良川 | - | - | 河内ダム | 35.0 | 1,995 | アース | 佐賀県 | |
城原川 | - | - | 城原川ダム | 98.5 | 15,800 | ロックフィル | 国土交通省 | 計画中 |
(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年現在)。
[編集] 橋梁
- 夜明大橋(昭和46年11月 - 国道210号)
- 関大橋(平成5年4月 - 国道210号)
- 袋野大橋(平成5年10月 - 国道210号)
- JR久大本線鉄道橋(昭和6年)
- 昭和橋(昭和3年3月)
- 原鶴大橋(昭和34年3月)
- 恵蘇宿橋(昭和30年4月)
- 朝羽大橋(昭和41年2月)
- 両筑橋(昭和30年10月)
- 筑後川橋(昭和6年5月)
- 大城橋(平成19年3月予定)
- 神代橋(昭和15年)
- 合川大橋(昭和63年3月 - 国道322号)
- 筑後川大橋(昭和48年3月 - 九州自動車道)
- 宮ノ陣橋(昭和63年)
- 西鉄天神大牟田線鉄道橋(昭和56年3月)
- 久留米大橋(平成4年11月 - 国道3号)
- 二千年橋(平成12年3月)
- 小森野橋(昭和32年10月)
- JR鹿児島本線鉄道橋(昭和52年11月)
- 九州新幹線鉄道橋(平成23年予定)
- 長門石橋(昭和46年3月)
- 豆津橋(平成5年1月 - 国道264号)
- 筑後大堰(昭和60年3月)
- 天建寺橋(平成11年3月)
- 下田大橋(平成6年3月)
- 六五郎橋(昭和41年3月 - 県道15号)
- 青木中津大橋(昭和57年3月 - 国道385号)
- 鐘ヶ江大橋(昭和56年3月)
- 諸富橋(昭和30年9月 - 国道208号)
- 大川橋(昭和30年9月 - 国道208号)
- 筑後川昇開橋(昭和10年5月)
- 早津江橋(平成3年3月)
- 川副大橋(昭和58年12月)
- 新田大橋(昭和48年7月)
[編集] 参考文献
- 『筑後川水系河川整備計画』:国土交通省九州地方整備局。2006年
- 『ダム便覧 2006』:日本ダム協会。2006年
- 『日本の多目的ダム』1963年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1963年
- 『日本の多目的ダム』1972年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1972年
- 『日本の多目的ダム』1980年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1980年
[編集] 関連項目
- 有明海
- 久留米藩-摂津有馬氏
- 柳川藩-立花氏
- 佐賀藩-鍋島氏・成富茂安
- 福岡藩-黒田氏
- 蜂の巣城紛争
- 日本住血吸虫症
- 合唱組曲『筑後川』(團伊玖磨作曲)
- 筑後川の戦い
- 筑後川温泉
- 筑後川花火大会
- エツ
- 空母「千歳」
- 嫌われ松子の一生
[編集] 外部リンク
- 筑後川河川事務所(国土交通省九州地方整備局)
- 筑後川フェスティバルWEB