鍋島直茂
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鍋島 直茂(なべしま なおしげ、天文7年3月13日(1538年4月12日)- 元和4年6月3日(1618年7月24日))は肥前国の戦国時代・安土桃山時代の武将。
[編集] 出自
1538年、肥前国佐嘉郡本庄村の在地の小豪族鍋島氏の駿河守清房の次男として生まれる。母は龍造寺家純の女華渓。名は信真・信昌・信生。官途名は左衛門太夫、飛騨守、従五位下加賀守など。幼名は「彦法師丸」。幼少の頃、肥前国小城郡の千葉胤連の養子となるも、後に実家に復籍。
[編集] 龍造寺隆信の片腕
佐賀城主龍造寺隆信に仕え、1570年の今山の戦いで、直茂の指揮により大友氏を撃破し、以降、隆信の副将として頭角を現す。1581年に筑後国柳川城主の蒲池鎮漣を謀略で滅ぼし(柳川の戦い)、柳川城に入る。1584年、沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れて戦死すると、隆信の嫡男政家を輔弼して、勢力挽回につとめた。
[編集] 佐賀の実権掌握
豊臣秀吉に早くから誼を通じて、島津氏への対抗から九州征伐を促し、以降、秀吉に属して朝鮮出兵等に出陣。また、龍造寺政家から国政を委ねられ、秀吉もまたそれを追認したため、国政の実権は直茂が掌握するところとなった。秀吉没後、関ヶ原の戦いでは当初西軍に属するも、後に東軍に寝返り、柳川城主の立花宗茂を討伐。肥前国佐賀35万7千石を安堵される。 その後、龍造寺政家が病死し、その子の高房は直茂を恨んで憤死し、徳川家康は鍋島直茂、勝茂父子を藩主と公認、明治維新まで続く肥前国鍋島藩の基礎を作った。1618年病死。当時としては長命であったが、耳に腫瘍ができ、その激痛に苦しんだ上での半ば悶死であったため、龍造寺高房の亡霊のしわざではないかとうわさされ、これが「鍋島家化け猫騒動」のモチーフのひとつとなっった。
佐賀市高伝寺蔵成富益峯筆鍋島直茂像(佐賀県立博物館に寄託)の石田一鼎による賛には「従五位鍋島加賀守藤原朝臣直茂法諱日峯宗智大居士父駿河守清房母龍造寺豊後守家純嫡女也」とある。室は、高木肥前守胤秀女、継室は石井兵部少輔常延の女陽泰院。