ナポレオン3世 (フランス皇帝)
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ナポレオン3世(本名シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、Charles Louis-Napoléon Bonaparte, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランスの政治家で、フランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。皇后はスペイン貴族の娘ウジェニー。
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[編集] 生い立ち
ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の弟であるホラント(オランダ)王ルイ・ボナパルトと、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子であったオルタンス・ド・ボアルネの三男として、1808年パリに生まれた。ナポレオン1世の甥に当たる。ボナパルト家の息子として裕福な生活を過ごしていたが、ナポレオンが1815年、ワーテルローの戦いに敗北すると、母オルタンスに引き取られて父ルイとは別居し、ドイツ・イタリアを転々とした後、スイスのチューリヒ州にあるアレネンベルク城で育つ。1821年にはアウクスブルクのギムナジウムに入学する。こうしてドイツ語圏で育ったため、ルイ=ナポレオンのフランス語からはドイツ語訛りが抜けなかった。1830年から1831年にかけてイタリアに滞在していたが、その間に兄ナポレオン=ルイとともに過激派のカルボナリ党に参加し、オーストリア官憲から追われる身となる。ナポレオン=ルイは1831年、弟とともに逃亡のさなかに麻疹で病死した。翌1832年には、従弟ナポレオン2世も病死し、ルイ=ナポレオンは伯父ナポレオン1世の後継者たらんと決意を強める。
[編集] 帝政樹立
フランスへ戻ると、7月王政打倒を訴えて2度反乱を起こすが、失敗する。1840年に終身刑となりハム牢獄に入れられたが、1846年に脱獄してイギリスへ亡命した。2月革命勃発後は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰した。第二共和政下の1848年12月、対抗馬カヴェニャック将軍に圧勝して大統領に当選する。大統領として権力を蓄えた後、1851年12月2日にクーデタを起こし、翌1852年にはナポレオン1世と同様、国民投票を経て帝政を開始、ナポレオン3世として君臨する。一連の流れはボナパルティズムによるところが大きい。
その後、1852年から1860年までを権威帝政、1860年1月23日に締結された英仏通商条約(自由貿易への転換)から1869年までを自由帝政、1869年から1870年までのエミール・オリヴィエ内閣を議会帝政と呼ぶ。
権威帝政では産業資本の利益援護政策を推進し、また当時のセーヌ県知事オスマンと共にパリの市街地を大改造する(パリ改造、1853-1870年)などの大成果を上げた。
自由帝政では立法院に対し大幅に権限を譲歩、民衆に自由の道を開いた。しかし、ジャーナリズムを軽視したため、メキシコ干渉後は大幅にその権威を悪評によって傷つけられた。そのため1869年からエミール・オリヴィエの第3党の育成に取り組んだ(普仏戦争の敗戦により頓挫)。また1868年にはパリ万国博覧会を開催した。国内の統治としては、聖職者や農民、産業資本家など異なる階層の利害関係を利用し、巧妙に統治を行った。この統治体制をボナパルティズムという。
[編集] 対外戦争
1853年のクリミア戦争にイギリスやオスマン帝国側で参加(参戦は1854年から)、ロシア帝国を破り、パリ条約で世界にフランスの力を見せつけた。1856年にイギリスと共同してアロー戦争を引き起こし清朝を屈服させる(1860年)。1858年にインドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得。
1859年5月3日にはイタリア統一戦争に介入、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ軍と共に転戦。6月4日のマジェンタの戦い、6月24日のソルフェリーノの戦いで勝利。イタリア統一を支持する代償として、プロンビエールの密約に基づきサヴォイアとニースを獲得する。
1861年にはメキシコ出兵など、積極的な対外政策を取る。1864年にオーストリア皇帝の弟マクシミリアン大公をメキシコ皇帝に就けた。しかし、ファレス率いる共和軍やアメリカの抗議により1867年に撤兵。この出兵は著しく第二帝政の威厳を傷つけ、第二帝政は崩壊に向かった。幕末期の日本にも進出し、戊辰戦争中の徳川幕府を支援した。
[編集] 普仏戦争
1870年、スペイン王位継承権についてプロイセンと争い、ビスマルクの計略(エムス電報事件)により7月19日宣戦布告する(普仏戦争)。部下の失策により序盤から劣勢となり、9月2日セダンの戦いに自ら出陣したが、腎臓結石を患っており移動もままならず、プロイセン軍に包囲されて降伏し、捕虜となった。このためパリ市民の反感を買い、9月4日失脚、第二帝政は幕を閉じた。勝利したプロイセンは全ドイツを統一し、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式を行った。
[編集] 亡命
1871年3月、ドイツからイギリスに亡命し、1873年1月9日亡命先イギリスのカムデン・プレイスで死去。その息子、ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)は英軍に入り、1879年にアフリカ南部で戦死した。
[編集] 評価
今日、ナポレオン3世に対する評価は極めて低い(1980年になってようやく再評価をされるようになった)。それには、普仏戦争によりアルザス・ロレーヌ地方を喪失し、第一次世界大戦の禍根を残したことと、その帝位が、降伏・革命で終わったことが大きい。しかし、彼が行ったパリの大改造や、イギリスとの友好関係はフランスを強固にした。他にも、イタリア統一戦争によって得たサヴォイとニース地方の獲得、といった数々の成功も収めており、もっと評価されるべき皇帝である。
[編集] 関連項目
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