田原総一朗
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田原総一朗(たはら そういちろう、1934年4月15日 - )は日本のジャーナリストである。
滋賀県彦根市出身。血液型B型。滋賀県立彦根東高等学校卒業、早稲田大学第二文学部中退後、同大学文学部に再入学、卒業。岩波映画製作所から東京12チャンネル(現:テレビ東京)を経て、フリーとなる。
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[編集] 東京12チャンネル勤務からフリーへ
- 東京12チャンネル勤務時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していた小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
- ディレクターを務めたドキュメンタリー番組では視聴者の興味を惹くため、事実を曲げてまで脚色を行なっていたようである。番組で採り上げられたジャズピアニスト・山下洋輔氏の著作「風雲ジャズ帖」所収のエッセイ「真相『今も時だ』」に詳細あり。
- 田原は文春でのインタビューの影響から田中角栄に関する著書や記事を数多く寄稿している。その中の1つ『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にてロッキード事件は陰謀で田中角栄は無罪であるとの陰謀論を展開している。しかしその内容が誤解や伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容の殆どがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。そして、このことに関して田原は現時点まで再反論は行っていない。
- また田原は創価学会名誉会長池田大作に複数回に渡って単独インタビューを行った。当時はオウム事件の影響で池田自身に証人喚問の要求が出ていた時期である。そして学会系メディア以外で池田はあまり登場しなかったので、インタビューは各方面で注目を集めた。
- 代表作であるノンフィクション「原子力戦争」はATG製作で映画化・公開されたが映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。それでも問題作ということで事実上封印作品になっている。また、田原は発表時脅迫されたという。
その後、執筆活動を経て、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』の討論コーナーの司会や、同局の『朝まで生テレビ!』の司会などを務める。
[編集] 朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト
- 『朝まで生テレビ!』では、「初めから司会をしようなんて思っていない。僕は討論をぶっ潰すつもりでやっている」と主張。またタブーに切り込むという方針で天皇制や原発、被差別部落問題をいち早く取り上げた。同番組内で「メディアは権力だ」との批判に対し、メディアは権力と言うより、むしろ大衆に迎合している側面が強いと言った主旨の発言をしている(筑紫哲也も前出の岡留安則と雑誌で対談した際に同様の発言をして田原を擁護している)。
- 主張の節々において、日本国民を安易に信用し過ぎている側面が見受けられ、討論相手に対して「(貴方の発想は)国民を馬鹿にしている」と批判する事例が多い。2005年9月の総選挙において自民党を大勝させてしまった国民諸氏の問題点を、論客の数名が指摘しつつも、同年11月放送の『朝まで生テレビ!』では、「今度の選挙だって一人一人が考えてると思うよ、勿論。国民、馬鹿じゃないからね」と発言。2006年1月放送の同番組では、民主党所属の菅直人が、評論家・大宅壮一の唱えた「一億総白痴」を肯定した際、嫌悪感を露わに非難している。結果、特定の有力者や有力団体に対しては舌鋒鋭いものの、国民全体に対しては「問題がある」等の苦言を呈する程度に留まり、批判力が弱まっている感は否めない。
- 『サンデープロジェクト』では菅直人の年金未納問題に絡む代表辞任騒動の討論で、自身の過失ではなく、行政の過失(後に武蔵野市が菅に謝罪の書面を送付。また小泉純一郎首相の国会答弁により菅の冤罪が確定)から年金未納期間が生じた菅を激しく非難。民主党代表辞任を決定的とした。
しかし、田原自身に年金未納期間(1977年2月~9月)があったことが発覚。翌週、番組において謝罪。
- 日本共産党が公表した宮澤内閣時代の内閣官房報償費(所謂官房機密費)の会計記録で田原が香典代として5万円を受け取っていたことが明らかになり田原も番組内でこれを認めた。またこれ以前に写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)で100万円単位で内閣官房報償費を受け取っていた疑惑を報道された。田原はこれを否定しているが、真相は未だ不明。
- 筑紫哲也の著書『ニュースキャスター』によると田原は「(番組を)引退をしようにも後を継げる人がいないから(番組を)続けるしかない」と発言をしている。また前出の岡留安則と雑誌で対談した際には「倒れるまで番組を続ける」趣旨の発言をしている。
- 番組の取り仕切り方に関しては賛否両論ある。『朝まで生テレビ』にパネラーとして出演したある海外メディアの特派員は週刊誌のインタビューで「司会者というよりも支配者として(番組を)仕切っている」と批判する一方で、政治家の加藤紘一は、「この番組は政治家にとって非常に出るのが怖い番組なんですよ」と番組内で発言。こうした批判に対し田原は、本音に迫ることの効用の高さを評価している。
- 田原は小泉首相と拉致被害者家族会とのやり取りをテレビで見ながら『2ちゃんねる』の反応を見て「これで世論が変わる」「マスコミのミスリードにいら立っていた人々が、『2ちゃんねる』と同様の反応をしたのだと、わたしはとらえている」と雑誌で発言し小林よしのりらから呆れられる(後に当の小林自身もネット迎合主義に走り、同類と化した)。
- 政治改革関連法案の可否をめぐり自民党が紛糾していた1993年「総理と語る」にて総理の宮澤喜一に対し執拗な挑発を行い、やります、やるんですとの言質を取ったが、政治家改革関連法案が廃案にされると、そのインタビューの模様が何度も放映され、宮澤が退陣に追い込まれるきっかけを作った。
- 田原は番組内で野党側に対し、「野党は反対ばかり」「対案を出せ」「だから政権がとれない」と批判しているが、日本大学の岩井奉信教授の研究によると、内閣提出法案に対する野党の賛成率は55年体制時の社会党が約7割、共産党が約4割と高い。また現在の民主党においては、社会党以上の賛成率を記録しており、田原の批判は事実と異なる。
- 田原はいわゆる大物と言われる政治家に対しては厳しい質問をしない。逆に中堅や若手議員に対しては容赦ないまでに厳しい質問をするため、田原ほど権力に迎合しているジャーナリストはいない、権威主義は嫌いと公言しておきながら、一番の権威主義者と評される事も多々ある。
[編集] その他
- 近江商人の末裔を称している。
- かつては作家中山千夏らの左派政党革新自由連合に関っていたこともある。
- 娘:田原敦子は、『世界の車窓から』、『徹子の部屋』のプロデューサーである。
- 愛妻家として知られ、妻がガンと宣告されたときは自殺を考えたという。
- 著書「私たちの愛」にて、「妻とはダブル不倫の末に(当時いた双方の配偶者と離婚した後)結婚。」とある。
- メディアの公共性のあり方が問われている中で、田原は「いかに視聴率を上げるかが自分の役割だ。『いい番組なら視聴率が悪くてもいい』というのは、絶対に通用しない」とあえて視聴率至上主義を公言している。
- 前述のように田原は当初噂の真相に連載を持っていたが、後に両者の意見の相違が生じ、同誌の批判の俎上に田原が上がることも珍しくなくなった。田原への批判としてよく使われる「電波芸者」と言う言葉も、同誌が最初につけたと言われている。だがそういった状況になっても両者の接触はたびたびあり、田原と岡留の対談は同誌発行中も休刊後も行われている。
- 『2ちゃんねる』管理人西村博之と雑誌「サイゾー」で対談をしたことがある。その対談の中で田原は『2ちゃんねる』に対し礼賛に近い発言をしている。
- 株式会社ドリームインキュベータの社外取締役を務めている。
- 東海中学校・高等学校で行われるサタデープログラムで、プロフィールを事細かに紹介した。
- ムハハnoたかじんで入れ歯であることを告白し、放送中に入れ歯を外すという予想外の行動に出た。
- 青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持っている。
- 国会議員の立候補依頼もあったようで田原氏曰く「血の小便出すような辛いことはいやだ。」と断ったそうだ。
[編集] 著書
- 『日本の戦争』(小学館)
- 『国家と外交』(共著 講談社)
- 『愛国心』(共著 講談社)
- 『日本コンピュータの黎明 富士通・池田敏雄の生と死』
- 『私たちの愛』
- 『連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ』
- 『時代を読むノート』講談社文庫(1986年)
- 『警察官僚の時代』講談社文庫(1986年)
- 『日本の官僚』文春文庫(1984年)
- 『新・日本の官僚』(1988年)
- 『平成・日本の官僚』(1993年)
- 『それでも、小泉純一郎を支持します―Discover Japan 1955-2002』(2002年)
- 『メディアと権力』(2006年)
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