タブー
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タブー(Taboo)とは、聖なるものと俗なるもの、清浄と不浄を分けて考える文化や宗教観念において、その両者の接触を禁ずる慣習や宗教上の制約を指す。ポリネシア語tabuが語源。18世紀末にジェームズ・クックが旅行記において、ポリネシアの習俗を紹介する際に用いたことにから西洋社会に伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。現代では洋の東西を問わず、日常的に忌避の対象をさす言葉として使われている。
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語源と定義
ポリネシア語のtabu(もしくはtapu)は前後二つの部分に分けられる。taは徴(しるし)、あるいは徴づけられたもの。buは「強く」を意味する。すなわち「強く徴づけられたもの」を指し、その語自体が「避けねばならぬ/触れてはならぬ」という意味を避けているという解釈もできるかもしれない。
何がタブーとされるかは文化によって著しく変わってくるが、一般に死、出産、生理、食物、貴種、被差別民、魔物、個人の名前はタブーとされることが多い。なぜ「それらに触れたり近づいたりして(あるいはそれに似た行動を取って)はならないのか」については、文化人類学においては接触呪術の観点から説明がなされる。ある事象が危険な性質を帯びているときに、それがそのもの単体で完結するものならば、触れても問題はない。しかしもしそれが感染するものであるならば、触れたり近づいたりすることは身命に危険を伴う。そのため当該事物・事象に触れたり近づいたり、あるいは言及したりすることが忌避されるのである。
しかしタブーと呼ぶには、それだけでは足りない。「その禁忌を犯したときに自動的に災厄に見舞われるもの」、それをもってタブーと言うことができる。これは本人だけでなく身近な者、あるいは同じ共同体の成員に及ぶ(すなわち、タブー破りをした者が帯びた「呪術的に危険な状態」は、自動的にその周囲に再感染する)ものとされ、そのため禁忌を犯した後には適切な(呪術的)対処が必要になる。タブー破りに対しては神や精霊などの存在から罰が下されるとしている文化もあるが、本質的にはその危難は、行動に対して「自動的」に派生する。
一般社会の視点
ただしこれは人類学の術語としてで、通常、「これはタブー視される」などと文章で使うとき、これらのことは意識されない。一般社会における「タブー」は単に、道徳的その他の理由をもって禁じられた事柄を指す。例えば日本の政治においては有事法制、憲法改正、そして国防政策などがタブーとされてきた。
身近な例としては、言霊信仰がある。これは死など縁起が悪いとされることや本名である諱の避諱のように、それについて極力、言及しない。口にしなくてはならないときは、遠まわしに言う、などといったものがある。『ハリー・ポッター』シリーズの「名前を言ってはいけないあの人」、『ゲド戦記』における「まことの名」がそのいい例だろう。このタブーは広義のタブーに見えて、実は狭義のそれとしての性質を備えている。単に口にしないことが推奨されるだけならば、その名前を口にした者を咎めたり、思わず身を引いたりする必要はない。ここでは、その名を口に上らせた者だけでなく、その周囲の者まで呪術的(この場合は魔術的、というべきか)災厄に見舞われる(ように「感じられる」)という構図が見て取れる。
特定の政治的な発言のタブー視についても、まず即物的な面から同様の分析ができる。その意見をあらわにすることによって物理的あるいは社会的・政治的な危難に遭うことを恐れている場合も含まれうるからである。
視野を広く持つとき、広義のタブーと狭義のタブーは明確に断絶があるわけではなく、連続的な様相を見せていると言えるだろう。ただしこれは、いま例示したような即物的な面だけで説明づけることは避けるべきである。
社会秩序とタブー
いわゆる未開社会などを範としてタブーについて考えると、タブーの対象とされるものは、それをタブー対象であると定義している集団にとって、秩序外・制御外の事象である。文明がこれだけ発達しても未だ克服し得ない死などは、その決定的な例として現代人にも実感できるであろう。だが逆に、王権がその共同体(社会)におけるタブーを犯すことによってその権能を成立させている文化もある。たとえば庶民の社会で禁忌とされる近親婚を繰り返すのも、これを理由として説明できる。表面的な説明は「血を濃く保つため」というが、「王族は全体として生殖のタブーの外側にいる」のだとも考え得る。こういった例には、制御外のものを己がものとして取り入れ、共同体の凡百とは一線を画す存在になるという説明もできよう。血によってではなく、タブーによって権力を正当化するのである。
穢れと聖性
タブーは単に「穢れであるから触れてはならない」のではなく、聖なるものに対しても忌避される例も多い。中華文明における避諱などもその例で、穢れと聖性は表裏一体であり、どちらも通常のレベルの共同体秩序の外側にある。あるいはものによっては共同体の秩序の根幹にある。これに近づくことを禁じることによって、その社会は秩序を保とうとする。根幹と外側とではまったく逆ととらえられるかもしれないが、前者を揺るがすとはつまり文化の屋台骨を突き崩すことであり、後者を疎かにすることは自らの輪郭を掻き消そうとする行為となる。理(ことわり)は「事を分ける」ことを語源とするように、外と内とを分け得ない状態に戻ることは、秩序から混沌に落ちていくことと言えよう。
つまり、タブーという文化的装置によって共同体の秩序を崩す行動を差し止めるはたらきというのは、社会(共同体)を守る機能である。外的な脅威に対してというよりは、その社会そのものが自壊してしまう危険から。だからこそタブーの働きは何者かの意思によるのではなく「自動的」でなければならないのだと、観察者の目は分析する。その視点に立つとき、いかなる事象がタブーの対象とされているかを静謐に分析することは、その社会を理解するための非常に重要な点となる。避けられているものこそが、その社会の秩序の根幹に係わっているからである。
共同体の機能としてのタブー
国家や地球といったマキシマムなレベルから、近所や家庭といったミニマムなレベルに至るまで、あらゆる規模の共同体においてそれぞれの禁忌は存在する。自分の家で「なんとなく避けられていること」は、隣家においては問題とならないかもしれない。卑近な例を挙げれば、A家では長男の高校受験でカリカリしていて『落ちる』『滑る』が禁句であったとしても、それがB家で同様に禁句であるとは限らない。むしろ婚期の問題であるとか、あるいはリストラについて話題にすることが、家庭に波風を立てるとして忌避される話題であるかもしれない。それぞれの共同体のタブーは異なっていても、その構造と機能は同一である。すなわち当該社会の秩序そのものか、あるいは非常に近いところにあり、それを維持するはたらきを持っている。
たとえば現代日本において憲法九条の改憲とは、二次大戦後の社会秩序そのものを揺るがし、現在「自分」が拠って立つ社会の基盤を変更してしまう行為である、……という半ば原初的な感覚から、それを俎上に載せることをも忌む。世界各国において生命科学に法的な歯止めをかけようとしているのは、それが利用法によっては有史以前からの人間の営みという秩序を、揺るがすものである……と(西洋文明圏においても)考えられているゆえである。無論それは単に神秘であるから、神の領域であるから、という説明で終わらせることもできうるかもしれない。だが上述の事柄を踏まえて、それだけで済ませるのには通文化的な共通項はとても多く、科学化されたはずの現代の文明もとても多くのタブーに溢れている。
タブーの対象の例
婉曲に言うもの
触れるのが憚られているもの