池田成彬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日(1867年8月15日) - 昭和25年(1950年)10月9日)は、大正、昭和戦前期の日本の財界人、政治家。日本銀行総裁、大蔵大臣。通称せいひん。
[編集] 来歴・人物
慶応3年(1867年)7月16日、米沢藩士池田成章の長男として山形県米沢市に生まれる。幼名は慎平。米沢中学(現・米沢興譲館高校)を経て、明治21年(1888年)慶應義塾理財科を卒業。明治28年(1895年)ハーバード大学を卒業。帰国後、福沢諭吉の主宰する時事新報社に入社するが、二週間で辞める。辞めた理由は諸説あってはっきりしないが、新聞がビジネスとして確立されていないことに嫌気が指したとも、ハーバード大学での知識や経験が生かされないことに不満を持ったからとも言われる。
慶應義塾塾長小畑篤次郎の紹介で三井銀行に入行する。調査係を振り出しに大阪支店勤務、足利支店長。コール制度や大阪市債の引き受け、銀行間の預金協定など新機軸を次々に打ち出していく。明治31年(1898年)欧米出張を命ぜられ、銀行業務の近代化について学ぶ。明治33年(1900年)本店に転勤し、営業部次長。明治37年(1904年)に営業部長となる。その間に、三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女艶と結婚する。明治42年(1911年)合名会社組織だった三井銀行を株式体制に改める改革に際して、常務取締役に選任される。以後、23年間にわたって常務のポストにつく。大正8年(1919年)に筆頭常務となる。
昭和6年(1931年)夏にヨーロッパの金融恐慌はドイツからイギリスに波及したが、金輸出禁止を打ち出した英国により、金本位制は崩壊する。この時、池田の指令で三井はドル買いに走った。イギリスの金輸出停止は日本に早晩波及し、日本も金輸出が禁止になる時に備えて思惑買いに走ったわけである。これに対し金解禁を実施した、時の蔵相井上準之助は、公定歩合を引き上げ、金融引き締めを取り、ドル買い資金の不足を打ち出した。国内の不況は一段と厳しさを増し、ドル買いの元凶として三井は名指しで非難されたが、池田は日本が金輸出を認めているのにドル買いをして何が悪いかと資本の論理で反駁した。昭和7年(1932年)に三井合名理事となり、三井財閥の実質的な責任者となる。三井家と対立することもあり、三井系企業からの三井家退職などの改革を行っている。昭和11年(1936年)には、三井合名・直系6社に定年制を導入し、自らも70歳で退職した。
三井を退職した翌昭和12年(1937年)、日本銀行総裁に就任した。その後、第1次近衛文麿内閣で大蔵大臣兼商工大臣をつとめた。陸軍の専横に対して、池田は資本の合理的論理で対抗したが、虚しかった。昭和16年(1941年)に枢密顧問官となるが、東条英機内閣成立後は、親英米と見なされた池田は、憲兵隊の監視対象となる。昭和20年(1945年)の終戦後、戦犯容疑を受けるが、後に容疑は晴れる。公職追放となり大磯に引きこもり隠遁する。近所に住む吉田茂首相が財政や人事についてしばしば池田に相談に来た。昭和25年(1950年)腸潰瘍のため、死去。享年83。