山形県立米沢興譲館高等学校
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山形県立米沢興譲館高等学校(やまがたけんりつよねざわこうじょうかんこうとうがっこう)は、全日制普通科と全日制理数科を持つ高等学校。本校は置賜地区はもとより山形県内では有数の進学校である。所在地は山形県米沢市大字笹野。
山形県立米沢興譲館高等学校 | |
創立 | 1697年(元禄10年) |
教育課程 | 全日制 |
設置学科 | 普通科 理数科 |
所在地 | 〒992-1443 |
山形県米沢市大字笹野1101番地 | |
電話番号 | 0238-38-4741 |
外部リンク | 公式サイト |
目次 |
[編集] 沿革
- 元和4年(1618年) 上杉家臣直江兼続が、禅林寺(現法泉寺)に学問所禅林文庫を創設。
- 元禄10年(1697年)6月15日 米沢藩第4代藩主上杉綱憲が、学問所を建立。 11月 聖堂を造営。(興譲館の始め)
- 明和8年(1771年)5月2日 第9代藩主上杉治憲(鷹山)が学問所を再興し、招聘した細井平洲(紀徳民)を馬場御殿の松桜館に迎え学生に講授。
- 安永5年(1776年)4月19日 学館が落成し藩校興譲館と命名する。9月12日 細井平洲が再び米沢に入る。このとき学則(先生施教弟子是則・・)を揮毫する。
- 寛政5年(1793年) 医学校好生堂を設立。
- 寛政8年(1796年)9月6日 細井平洲が三たび米沢入り、上杉治憲が関根の普門院まで出迎える。
- 寛政9年(1797年) 通学生のために友于堂を建築。
- 明治4年(1871年) 洋学舎を創設し、英語教師3名および英国人教師を雇う。
- 明治7年(1874年) 旧藩士協立の私立米沢中学校となる。
- 明治19年(1886年)9月19日 勅令15号中学校令により、修業年限を5ヶ年とし、校舎を北堀端町片町に新築。(この日を創立記念日とする。)
- 明治28年(1895年)5月2日 米沢尋常中学興譲館と改称。
- 明治33年(1900年)4月 県立に移管され、山形県米沢中学校と改称。
- 明治34年(1901年)4月 山形県立米沢中学校と改称。9月19日 校舎を関東町(現西大通)に新築移転。
- 昭和4年(1929年)1月29日 山形県立米沢興譲館中学校と改称。
- 昭和23年(1948年)4月 山形県立米沢第一高等学校と改称。
- 昭和25年(1950年)4月 米沢第四高等学校と統合し、山形県立米沢高等学校と改称。
- 昭和27年(1952年)4月 山形県立米沢西高等学校と改称。(統合分離、米沢東高等学校を新設。)
- 昭和31年(1956年)4月 山形県立米沢興譲館高等学校と改称。
- 昭和43年(1968年)4月 理数科を設置。
- 昭和56年(1981年)3月1日 山形県立米沢興譲館高等学校定時制課程閉校式を挙行。
- 昭和62年(1987年)9月 笹野に新築移転。
- 平成14年(2002年)4月 文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」研究指定校。(平成14年度 - 平成16年度末)
[編集] 校名の由来
興譲館という校名は、「大学」の一節「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から採られた。
興譲とは、譲をおこすとよみ、譲を興すとは恭遜の道を繁昌さすること也(細井平洲、建学大意)
[編集] 出身者
- 秋山武三郎(電気通信技術の専門家)
- 池田成彬(元大蔵大臣)
- 伊東忠太(建築家)
- 宇佐美洵(元日本銀行総裁)
- 大熊信行(経済学者)
- 大塚勝夫(経済学者)
- 河上清(ジャーナリスト・社会主義者)
- 雲井龍雄(幕末・明治維新の志士)
- 下村正助(海軍中将)
- 高橋里美(哲学者)
- 南雲忠一(海軍大将)
- 浜田廣介(童話作家)
- 堀内素堂(江戸時代の医学者)
- ますむらひろし(漫画家)
- 皆川睦雄(元プロ野球選手)
- 山下源太郎(海軍大将)
- 我妻栄(民法学者)
- 工藤俊作(海軍軍人)
[編集] 参考文献
- 松野良寅 編『興譲館世紀』(山形県立米沢興譲館高等学校創立百年記念事業実行委員会、1986年)
- 今泉亨吉『上杉鷹山公小伝』(御堀端史蹟保存会、1982年第7版)
- 米沢児童文化協会 編『郷土に光をかかげた人々』(米沢児童文化協会、1989年改訂2版)