金融恐慌
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金融恐慌(きんゆうきょうこう)は、1927年3月から発生した恐慌の一つである。2年後に発生した世界恐慌とあわせ、昭和恐慌と呼ぶこともある。
日本経済は第1次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。
1927年3月14日の衆議院予算委員会にて、来る9月30日が期日となる震災手形を10年間繰り延べる震災手形関係二法(震災手形善後処理法案、震災手形損失補償公債法案)が審議されていた。審議の始まる直前、東京渡辺銀行が正午の資金繰りに困り果て、渡辺銀行の専務が大蔵次官に陳情する。本来は与党側の片岡直温大蔵大臣と野党側の田中義一が内々に合意していたこの法案も、新聞がその癒着を報じると一転して野党立憲政友会は与党憲政党を攻撃していた。業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた野党に対し、企業への信用不安を恐れた片岡蔵相は、次官から差し入れられたメモを元に「そんなことはできません。現に今日正午頃において東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と発言してしまう。この時点で渡辺銀行は資金繰りに成功して辛くも破綻を免れていたが、この片岡の発言を受け依然危機的経営状況を脱していない渡辺銀行の首脳陣は、責任転嫁できるとばかりに翌日から休業することを決定。
また全国各地で「銀行が危ない」、「銀行が潰れたら、お金が引き出せなくなる」などの取り付け騒ぎが起こった。連鎖的に中井銀行、左右田銀行、八十四銀行、中沢銀行、村井銀行が休業を余儀なくされ、日銀が非常貸出を実施する。片岡に対する問責決議案で国会は紛糾し乱闘騒ぎにまで発展する。法案自体は無事通過し事態は沈静化したかに思われたが台湾銀行が鈴木商店への融資を打ち切ったことで鈴木商店が倒産。事態を解決するため、若槻内閣は台湾銀行救済勅令案をもって実行しようとしたが、枢密院で否決されてしまう。そして、この責任をとる形で若槻内閣は翌4月に総辞職する。
代わって立憲政友会総裁である田中義一内閣が成立した。田中義一は、高橋是清を蔵相に任命して金融恐慌の解決を図った。高橋は、全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施したのである。モラトリアムとは、法令で一定期間、債務の支払いを猶予することで、戦争や恐慌などの非常事態が起こったために債務履行が困難になったときに実施される法令である。余談として、1923年の関東大震災のときにも実施されている。高橋は、モラトリアム発令の準備期間として4月22日、23日の2日にわたり全国の銀行を一斉に休業させると共に現金の供給に全力を尽くした。また、紙幣の在庫が底をつくと、片面だけ印刷し、裏が白い急造の200円札(乙二百円券)を500万枚以上刷らせ、銀行休業日に加え日曜日である24日にも銀行に届け、見せ金として店頭に積ませた。25日から500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して銀行を開き、店頭の現金を見せて取り付けに来た人を安心させた。3週間のモラトリアム期間が終了する5月12日までに裏が赤い片面印刷の200円札を750万枚追加し、モラトリアム終了後も混乱無く金融恐慌を沈静化させた。この200円札は日本銀行が回収につとめ、市中にはほとんど残っていない。
しかし、この取り付け騒ぎに国民は小さな銀行に預金を預けていては危ないと考え、財閥系などの大銀行に対して預金を預けるようになった。そのため、大銀行に預金が集中するようになり、財閥の力はさらに強大化した。
[編集] 参考文献
- 「貨幣に見る近代日本金融史」 3-3 昭和2年金融恐慌 - 日本銀行金融研究所 貨幣博物館内『金融研究』巻頭エッセイ、乙二百円券のイメージがある
- 貨幣の散歩道 第51話 金融恐慌と裏白紙幣 - 日本銀行金融研究所 貨幣博物館内 貨幣玉手箱