梶川頼照
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梶川 頼照(かじかわ よりてる、正保4年(1647年) - 享保8年(1723年))は、江戸時代前期の幕府旗本。浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷の際に浅野を取り押さえた男として歴史に名を残した。通称は与惣兵衛(よそべえ)。梶川氏は織田氏の支流のひとつであるので織田信長の自称を信じるなら桓武平氏の流れであり、本姓は平頼照(たいら・の・よりてる)ということになる。
[編集] 経歴
幕府旗本土岐縫殿助頼泰(切米600俵)の次男として生まれる。母は旗本山岡伝右衛門景重(400石)の娘。
明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁。寛文3年(1663年)11月19日から御書院番として出仕。寛文4年(1664年)8月11日、姉が嫁いでいた梶川半左衛門分重が嗣子なく没したため、その養子となって梶川家を継いだ。元禄9年(1696年)4月25日、本所奉行に就任。元禄10年(1697年)正月22日、御腰物奉行頭。12月18日には布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄13年(1700年)7月18日、大奥御台所付き留守居番となる。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、浅野長矩を取り押さえた。この手柄で3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となった。またこのときの刃傷事件の仔細を「梶川与惣兵衛日記」に残した。浅野が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか!」と叫んだという話もこの日記を根拠とするものである。
宝永4年(1707年)正月15日、西城持筒頭に就任し、正徳元年(1711年)4月1日、武勇のものが選ばれる槍奉行に選ばれた。享保4年(1719年)2月7日、職を辞し寄合(無役の旗本)に列する。享保5年(1720年)5月23日、隠居して養老料として切米300俵を受けた。享保8年(1723年)8月8日に死去。享年77。東京都中野区の乾竜山天徳院に葬られた。法名は謙享院殿閑雲古水居士。
なお、梶川は、貞享元年(1684年)8月28日に起こった若年寄稲葉正休による大老堀田正俊への殿中刃傷の際にも居合わせたといわれる。
[編集] 刃傷について梶川が記したこと
彼が刃傷の現場に居合わせ、その詳細を記した「梶川日記」を残した人物であることはすでに述べたとおりである。その刃傷の様子は現代語訳で見てみると次のとおり。
「自分はいつもどおり登城して大奥にいった。その日の奉答の儀式で自分は、御台所信子様の使いの役目があった。しかし吉良上野介殿からの伝言を受けて勅使様の都合で儀式の刻限が早まったを告げられたので、詳細を直接吉良殿にお伺いしようと思って吉良殿を探した。松の廊下に面した下の御部屋にいた茶坊主に「吉良殿はお呼びせよ」と命じたが、その茶坊主は「吉良上野介様は御老中に呼び出されました」と答えた。そのとき勅使接待役の浅野内匠頭殿の姿が見えたので、自分はその茶坊主に「内匠頭殿をお呼びせよ」と命じた。それを受けて内匠頭殿が自分の方へ参られたので、自分は「諸事よろしくお願いいたします」とご挨拶申し上げた。内匠頭殿は「心得ております」と答えられ、下の御部屋の自分の席に戻られた。その後、大広間から白書院の方を見てみたら吉良上野介殿が白書院の方からこちらへ来られるのが見えた。そこで自分はふたたび茶坊主に「吉良殿をお呼びせよ」と命じた。茶坊主はすぐに吉良殿のほうへ行き、その伝言を受けた吉良殿の様子はよかろうと言った感じで、すぐに自分のところへ向かって来られた。なので自分も吉良殿に近づき、松の廊下がまがったところにある角柱から6間から7間ぐらいのところで吉良殿と自分は対面した。自分が「本日の勅使様の刻限が早まったのでしょうか?」と吉良殿にお尋ねしていたところ、突然、誰だかはわからないが、吉良殿の後ろから「この間の遺恨を覚えているか!?」と声をかけてきて吉良殿に斬りかかった者がいた。
太刀の音はすごく大きく聞こえたが、のちに聞いたところでは傷はそれほど深くなくて浅手だったらしい。自分達も驚いてよく見れば、なんとそれは勅使御馳走役の浅野内匠頭殿であった。上野介殿は後ろのほうへ逃げようとしたところをまた二回ほど斬られ、うつ向きに倒れられた。自分達は内匠頭殿に飛びかかった。内匠頭殿との間合いは二足か三足かという短いものであったので、すぐに組み付く形になったと記憶している。自分達はまず内匠頭殿の刀を取り上げるとともに床に押し付けて動けなくした。そのうち近くにいた高家衆や院使御馳走役の伊達左京亮(伊達村豊)殿、また坊主どももやってきて次々と取り押さえに加わってくれた。上野介殿はいつの間にかいなくなっていた。誰かが運んでくれたのか、周りにも見えなかった。のちに聞いたところでは高家の品川豊前守(品川伊氏)殿と畠山下総守(畠山義寧)殿が上野介殿を引き起こしたが、ご老齢での負傷であるので、吉良殿にはほとんど意識がなくなっていて、この両名で御医師の間へ運んだということだそうである。それより内匠頭殿は大広間の後ろのほうへ大勢に連れて行かれた。そのとき内匠頭殿は「上野介には恨みがある!殿中であること、また今日は儀式であることに対して恐れ多いとは思ったが、仕方なく刃傷に及んだ。討ち果たさせてほしい!」と幾度も繰り返して申しておられた。しかしあまりにも大声であったので、高家衆をはじめ取り囲む人々から「もはや事は終わったのです。おだまりなさい。あまり大声では如何なものかと思いますよ」と言われたので、それ以降は内匠頭殿も何もいわなくなった。」
また梶川はその後の赤穂義士四十七士の討ち入りで高まっていく浅野びいきの空気の中で、いろいろ辛い思いもしたようである。梶川日記の最後には「この事件のことを色々知ることになった今となれば、内匠頭殿の心中は察するにあまりある。吉良上野介殿を討てなかったことはさぞかしご無念であったろう。本当に不意のことだったので自分も前後の思慮にまで及ばなかったのである。取り押さえたことは仕方なかった。」と言い訳が添えられている。