鷹司信子
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鷹司 信子(たかつかさ のぶこ、慶安4年(1651年) - 宝永6年2月7日(1709年3月17日))は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の正室。左大臣従一位鷹司教平の娘。母は後水尾天皇第一皇女・梅宮(文智女王)。兄に関白鷹司房輔、妹に霊元天皇中宮鷹司房子(新上西門院)がいる。かつて綱吉の祖父・秀忠は娘・和子を後水尾天皇の中宮にする際に、後に信子の母となる第一皇女・梅宮の存在が障害であるとして宮中から追放したという経緯があり、信子と徳川氏との間には深い因縁があった。
寛文4年(1664年)、当時上野国館林藩主であった徳川綱吉と結婚。延宝8年(1680年)、綱吉の将軍就任により江戸城大奥に入る。
綱吉生母・桂昌院とは不仲であったとされ、綱吉との夫婦仲については不詳だが、2人の間に子女は産まれなかったことから、不和であったのではとする説がある(但し、歴代徳川幕府将軍で正室との間に子女を儲けた例の方が少ない点は留意する必要がある)。
宝永6年(1709年)、夫・綱吉の死から一月も経たないうちに死去。享年59。そのあまりに急な死に、実は綱吉は継嗣問題を巡って信子と御年寄女中の手によって殺害され、信子はその後自害したという俗説も残っている。墓所は東京都台東区の寛永寺。