堀田正俊
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堀田 正俊(ほった まさとし、寛永11年(1634年) - 貞享元年8月28日(1684年10月7日)は、江戸時代の大名、大老。上野安中藩主、下総古河藩主。
堀田正盛の3男。徳川家光の乳母春日局の養子となる。官位は従四位下備中守、後に筑前守を称す。家光の長男・徳川家綱の小姓となり頭角を現し1670年(寛文10年)に若年寄、1679年(延宝8年)に老中に就任。
4代将軍・家綱の死去にあたり、当時の大老酒井忠清と対立して家綱の実弟(異母弟)である綱吉を推した。綱吉が5代将軍に就任すると、天和元年(1681年)12月11日、大老に任ぜられる。就任後は「天和の治」と呼ばれる政治を執り行い、特に財政面において大きな成果を上げた。
貞享元年(1684年)、大坂の淀川の治水事業から役目を外されて正俊の事を恨みに持っていた従兄弟で若年寄の稲葉正休に、江戸城内で暗殺された。