大奥
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大奥(おおおく)は、江戸城の御殿における将軍の母、正夫人(御台所)および側室の居所のことである。
将軍の居所は基本的に本丸御殿であったため大奥は本丸御殿にあったが、西の丸御殿や二の丸御殿にも大奥に相当する区画があり、将軍や大御所が西の丸や二の丸に居したときはそれぞれが大奥として機能した。
二代将軍徳川秀忠の正室・お江与が創立し、三代徳川家光の時代に家光の乳母で権勢を振るった春日局が、元和4年(1618年)大奥法度を定め奥を整備しまた統括した。
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[編集] 構造
「奥」あるいは「奥向」は一般的に日本の屋敷における主人の私的な空間、女性の居室となる空間を指し、江戸城では奥向きのうちもっとも奥まった女性の居室となる部分を大奥、大奥と表(表向)の中間に位置する将軍の日常生活空間のことを「中奥」と呼んだ。
江戸城の大奥は原則的に将軍と、将軍の幼い息子を除けば男性が立ち入ることを許されない空間で、古代の朝廷の後宮でも天皇以外の男性が自由に出入りしていた日本の宮廷文化の伝統からみると珍しいものである。ただし、大奥の中には大奥の出納や台所などに関わる庶務をつかさどる男性の役人が詰める広敷と呼ばれる別棟の建物があり、大奥全体の中にまったく男性がいなかったわけではない。しかし、広敷と大奥の御殿、そして長局の間には御錠口という厳重に管理された出入り口を通してしか通行することができず、広敷役人の御殿への立ち入りは固く禁ぜられた。広敷を除く大奥は、将軍の寝所、御台所や側室の居室、奥女中の仕事中の詰所などからなる御殿と、御台所や側室に仕える奥女中が日常の寝泊りをする長局というふたつの空間から成り立っていた。長局は二階建てで、奥女中の身分に応じて振り分けられた部屋を利用した。上臈や御年寄といった身分の高い奥女中であれば一人で一部屋を占有することができ、自分自身の身の回りの世話のために私的な女中を抱えられた。
中奥と大奥の間には廊下が2本あり(1本だった時代もある)、そのうちの御鈴廊下が中奥における将軍の休息所、寝所にあてられる書院のすぐ裏に位置する。将軍が母や妻たちと対面したり大奥で休息したりすることを望むときは、御鈴廊下を通って大奥に渡るようになっていた。将軍に近侍する中奥の小姓は廊下を渡ることを許されず、廊下から先の大奥では、御坊主という担当の奥女中が交代して近侍した。このとき小姓がこの廊下で鈴を鳴らし、将軍が大奥に渡ることを大奥側で控えている奥女中に知らせたことから、この廊下の名は御鈴廊下と呼ばれたという。
[編集] 大奥の女性
将軍の生母や娘、御台所や側室を除けば、大奥の女性のほとんどは彼女らに奉仕する奥女中であった。身分の高い奥女中の局に雇われた私的な女中を除いた正規の奥女中は将軍・御台所に直接謁見することができるかどうかにより、(男性の幕臣の旗本と御家人のように)お目見え以上とお目見え以下という二段階の身分に大別される。最盛期では、約1000人以上いたと言われている。
御台所(みだいどころ)は多くの場合宮家や五摂家の娘で、形式的な正室であることが多かった。将軍との間に世継となった子を設けたのは、二代将軍御台所・於江与ただ一人である。彼女らは夫に先立たれれば落飾して出家し、大奥に残っても夫の側室であった次期将軍の生母に対して実力的に劣る立場に追いやられることも覚悟しなければならなかった。
奥女中の中には、御台所に随行して京都から下向してきた中級公家の娘たちもいた。彼女らはお目見えの最上位である上臈(じょうろう)として将軍や御台所の近侍を務める格式ある職を務めたが、実権は武家の娘である奥女中に握られ、大奥において実力をもつことのできた者は少ない。大奥内で政治的実権を握っていたのは、奥女中第二位の御年寄(おとしより)で、表の老中に匹敵する役職であった。御年寄の下には中年寄(ちゅうどしより)以下の奥女中が従い、その権勢は絶大であった。
若い奥女中のうち、選ばれたとくに器量がよく、見込みのある女性は、将軍や御台所の身の回りの世話係である御中臈(おちゅうろう)につけられ、将軍の側室はもっぱら彼女らの中から選ばれたが、上臈御年寄の公家の娘が将軍の寵愛を受けたり、もっと身分の低い奥女中が将軍の目にとまってお手つきになった例もあるので一概には言えない。将軍の寵愛を受けるとその奥女中は「御内証の方」(ごないしょうのかた)と呼ばれ、身分はそのままで将軍の寝所に公然と侍ることになる。内証の方が将軍の子供を産むと正式に側室の扱いを受けて独立の部屋を与えられ、「御部屋様」と呼ばれることになった。
大奥の主である将軍が死去すると、正室である御台所や、次期将軍の生母は大奥にそのまま残って大奥の権力者として君臨しつづけたが、成人した子供をもてなかった御内証の方や側室は江戸城を出て落飾出家し、桜田御用屋敷で前将軍の菩提を弔いながら余生を送った。
しかし、将軍のお手がつかなかった大半の奥女中は、代替わりをきっかけに大奥を出る強制力は特に働かず、そのまま新しい将軍の大奥に仕える女性も珍しくなかった。そもそも大奥へ奉公に出ることはつてさえあればそれほど大変なこととは思われていなかったらしく、武家や町人の娘が花嫁修行の一環として出仕し、特に何事もなく出世することもなければそのまま致仕して結婚することも特に珍しくなかったと思われる。
[編集] 大奥最後の日
慶応4年(1868年)4月、江戸幕府は官軍に江戸城を明渡すことになった。当時の大奥老女・瀧山はそれに伴い、奥女中たちに年功に合わせて拝領物を与え、奥女中たちを去らせた。大奥に残っていた、本寿院(十三代将軍生母)と天璋院(十三代将軍御台所)は一橋家の屋敷へ、静寛院宮(和宮親子内親王)は西ノ丸にいた実成院(十四代将軍生母)とともに田安屋敷へと移り、城の明け渡しに備えた。4月11日、東海道先鋒総督が江戸城に入った。この人数は約八百名ほどとされる。大奥法度も廃止となった。
ちなみに最後の将軍であった徳川慶喜正室・一条美賀子は一度も大奥入りしなかったので、この場には立ち会わせなかった。
[編集] 明治の大奥もの
解雇された女中たちは面白おかしく大奥内情を暴露した。これらにより大奥について虚実入り混じった情報を得ることができた。
- 『旧事諮問録』:明治24年、大奥の中臈箕浦はな子の口述
- 『千代田之大奥』上下:明治25年
- 『大奥の女中』上下:明治27年
- 『お局生活』明治の女官:明治40年
- 『御殿生活』6篇:桜井秀 明治44年 旗本の回想
- 『御殿女中』:三田村鳶魚 昭和5年 元八王子千人同心の家に生まれた
[編集] 有名な大奥の女性
- 崇源院 - 2代将軍徳川秀忠の正室、3代将軍徳川家光の母。
- 春日局 - 徳川家光の乳母。
- 順性院 - 徳川家光の側室、甲府宰相徳川綱重の母。6代将軍徳川家宣の祖母。
- 桂昌院 - 徳川家光の側室、5代将軍徳川綱吉の生母。
- 天英院 - 徳川家宣の正室。
- 月光院 - 徳川家宣の側室、7代将軍徳川家継の生母。
- 絵島 - 徳川家継時代に勢力をふるった大年寄。
- 姉小路 - 12代将軍徳川家慶付き上臈御年寄。家慶時代に勢力をふるった。
- 天璋院 - 13代将軍徳川家定正室。
- 瀧山 - 徳川家定時代から15代将軍徳川慶喜時代の大年寄
- 実成院 - 14代将軍徳川家茂の生母。
- 和宮 - 14代将軍徳川家茂正室。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 関連書
- 高柳金芳『徳川妻妾記』江戸時代選書9 雄山閣 ISBN 4639018088
- 高柳金芳『大奥の秘事』江戸時代選書3 雄山閣 ISBN 4639018029
- 田村栄太郎『江戸城』江戸時代選書8 雄山閣 ISBN 463901807X
- 三田村鳶魚、朝倉治彦 編『御殿女中』鳶魚江戸文庫17 中公文庫 中央公論社 ISBN 4122030498
- 卜部典子『江戸城大奥―権力と愛憎の女たち』ぶんか社文庫 ぶんか社 ISBN 4821150204