日本語の誤用
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日本語の誤用(にほんごのごよう)とは、規範的な日本語(標準語)(共通語)と異なる日本語の表現である。日本語の誤用は言語学上の概念ではない。言語学では言語について正しい・誤っているの判断をしないからである。また、誤読または誤用が定着した言葉については日本語の変化をご参照いただきたい。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 日本語の誤用の代表的な例
※加筆の際は、必ず50音順でお願いします。
[編集] 勘違いで全く違う意味に使われてしまう言葉
- 一姫二太郎
- 最初の子供が女児、次の子供が男児であること。→×娘一人と息子二人。
(語源を 辿りたい どなたか 解る人宜敷お願いします)
最初の子が女であると、比較的おとなしく育てやすく、それで子育てに慣れてから男の子を育てると楽に行くため
- 道徳的、宗教的あるいは政治的な確信に基づいて(つまり、道徳的・宗教的・政治的な確信に従って)犯す犯罪の意。テロがその代表的なものである。→×悪いことと知りながら意図的または作為的に犯す罪。転じて、意図的または作為的なキャラクターをさす場合もある。
- 「確信」という言葉が独り歩きしてしまった結果である。「確信犯的」という表現を使うべきではないかという意見もあろうが、殆どの場合は「故意犯」が正しい。
- 気が置けない
- 気兼ねする事がない。→×油断できない。
- 意味がほぼ逆に解釈されている。否定的な意味を含むためか。
- 奇特
- 感心すること。殊勝であること。→×①行いが異様である。また、奇人である。②物好きである。好事家である。
- 皮肉として使われていたものが、定着したものと考えられる。
- 檄を飛ばす
- 自分の主張や考えを広く人々に知らせる。またそれによって人々に決意を促したりする。→×叱咤激励する。また、上司や監督が部下や選手に発破をかける。
- 「檄」と激励の「激」を混同したものであろう。
- 触り
- 楽曲や物語の中で、最も盛り上がる部分。→×楽曲や物語の最初の部分、又は一部分。
- サビと同義。
- すべから(須)く
- 多くは下に「べし」を伴って、ある事を是非ともしなければならないという意を表す。当然のこととして。必須。→×大方は。だいたい。
- 「すべて」との音衝突による誤用であろう。若者に多いが、40代以上でもみられる。
- 流れに掉さす
- 棹を使って進むように、多勢に従う。→×時流に逆らう。
- 「棹で流れをせき止めている」と誤解されたものであろう。
- 情けは人のためでなく、自分のためになることである。→×情けは人のためにならない。
- 「為ならず」を古語的意味の「ために存在しない」ではなく、「ためにならない」と解釈してしまったことにより生じたものであろう。
- 煮詰まる
- 構想などが固まること。→×新しい(良い)アイデアが浮かばず、行き詰まること。
- 憮然(ぶぜん)
- 失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。→×怒りをあらわにして、ふて腐れるさま。
- 役不足
- 俳優などが自分の与えられた役に対して不満を抱くこと。転じて、その人の能力に対して役目が不相応に軽いこと。→×自分の与えられた役目が力量に見合わないこと。
- これも意味がほぼ逆に解釈されている。力不足と勘違いした結果である。
[編集] 用法の誤りに起因する言葉
- ×愛想を振りまく→○愛嬌を振りまく
- 愛想を振りまくというと、八方美人のようで嫌われるのでは。
- ×怒り心頭に達する(走る)→○怒り心頭を発する
- 激怒することの意。「頭にくる」から類推したものか。
- ×噂をすれば影が立つ(△影とやら)→○噂をすれば影が差す(または、単に影)
- 影は「差す」ものであって「立つ」ものではない。角が立つとの混同か。括弧内は俗語的かつなげやりな表現。影が陰に通じ、直接的な表現を避けるため、「なんとやら」とぼかした表現がかなり一般化してしまったための誤用ともとれる。
- ×押しも押されぬ→○押しも押されもしない
- ×風の噂→○風の便り
- 「風の便り」自体が、「噂」という意味を持つ。
- ×精も根も疲れ果てる→○精も根も尽きる(尽き果てる)
- ×彼は弱冠30歳で会社を興した。→○30歳の若さ
- 「弱冠」とは、(《礼記》曲礼上の『二十を弱と曰ひて冠す』から)二十歳のこと。近代では少し意味が広がり、二十歳前後を指すようになった。しかし、30歳というのはどう見てもこれに当てはまらないので、誤用としてみなされる。若干と音衝突のための誤用とも考えられている。
- ちなみに、団塊の世代というのも元は昭和23(1948)~25(1950)年にかけて生まれた第1時ベビーブーマーだけを指したが、近年は解釈を広げて、2006~2007年現在、50歳代の熟年を指すようになった。
- ×一人で爆笑した。→○一人で馬鹿笑いした。
- 爆笑とは、大声で笑うことではなく、大勢が笑うことであるため、一人や二人がどんなに大声で笑ったとしても爆笑ではない。また、悲しさを強調するために嗚咽やすすり泣きに対しても「号泣」と書き立てる誤用がマスコミには多い。
[編集] 違う言葉との混同に起因する言葉
- ×生き様 - 生き方+死に様
- "「死に様」からの連想でできた語で、生きてきた過程を示す言葉としては相応しくないとされる。ここでの様は「様を見ろ」→「ざまぁみろ」と同じニュアンスであるからだ。"との説明が良くなされるが、本来「死に様」の「様」は単なる「様子」を示す「様」でありネガティブな意味合いは持たない(新明解国語辞典より概要のみ)。つまり、この意味では「生き様」も誤用とは言えない。ただし、「生き様」という言葉自体は、公の場でそれほど使われるものでないことは確かである。
- ×汚名挽回 - 汚名返上+名誉挽回
- ×喧喧諤諤 - 喧喧囂囂+侃侃諤諤
- 喧々囂々とは口々にしゃべってやかましいことであり、侃々諤々とは何の遠慮もせず盛んに議論を交わすことである。
- ×的を得る - 的を射る+当を得る
- 弓道から起こった言葉なので、「射る」が正しい。
[編集] 意味が変わってきた言葉
- 勘違い
- 本来の意味である「思い違い」のほかに、芸能人などが自分には大きな能力や素質があると過信してしまうことを指すようになった。
- 偽善者ぶる
- 偽善者のふりをする、偽善者の真似事をする。→偽善者がその通りの偽善行動をとる。「ぶる」は先述のように「ふりをする、真似をする」という意味であり、偽善者本人に対し用いるのは誤り。
- 馬の骨
- 「馬の骨」とは、現代では素性の知れない者、いわゆる「ぽっと出」を侮蔑する言葉(罵詈雑言)であるが、本来の意味は血統、出処、転じて家系の意。成句「どこの馬の骨とも知れない」から「馬の骨」の意味を類推したものか。
- 気前がいい
- 金や物を出し惜しみしない。けちけちしない。→金銭的・物的な余裕は無いだろうにやたら奮発するものだと勘繰り、揶揄する言葉になった。したがってそうした意図がないのであれば、素直にありがとうございますと感謝の意を表わすべきである。
- 頭が切れる(キレる)
- 頭脳明晰であること。→衝動的な行動に走ること。または、カッとなること。「堪忍袋の緒が切れる」からか。
- 逆鱗に触れる
- (竜の顎の下に逆さに生えたうろこに触ると、必ず人を殺してしまう意から)目上の者を激しく憤らせること。→竜は架空の生物であるため、性質を知れというほうが筋違いかもしれないが、竜というのは本来、温厚な性質とされ、背中に乗ることもできるのである。したがって、ちょっとしたことでは滅多に怒ることは無いのである。いわゆるイージーミスで人を怒らせてしまうことに使うのは誤用である。
- けじめ
- 物と物の間の境の意から、道徳や規範によって行動・態度に示す区別、節度ある態度を言い、「けじめを食う」というのは他のものと比べて冷遇される意。→あらゆる場面で、面目を汚したり、裏切ったり、不祥事を起こしたりした者に対して懲罰または制裁を与えること。なぜか暴走族や暴力団、右翼・極左団体などの反社会分子の中で隠語的に用いられることが多い。
- 姑息
- 一時凌ぎをすること。また、その様。→卑怯・卑劣なこと
- こだわる
- ちょっとしたこと、些細なことを必要以上に気にする。拘泥する。→妥協しないでとことん追求する。
- 賛否両論
- 賛成と否定に意見が分かれること。→「非難囂々」と混同して使われる。
- しつけ(躾・仕付け)
- せっかん(折檻)
- 上記「しつけ」と同じ誤用がなされている。
- その日暮らし
- なし崩し
- 借金を少しずつ返すこと。→曖昧なうちになかったことにすること。または、善からぬことが漸増すること。後者は「雪だるま式」との混同か。
- 耳障り
- うるさいこと。→聞いたときの感じ。聞き心地。「手触り」「肌触り」と同様に「耳触り」として用いられてしまっている。
- むかつく(ムカつく)
- 胃に違和感・不快感を覚える。また、吐き気がする。→腹が立つ。癪に障る。「イラつく」と同義語。「ムカッとくる」というのが独り歩きしてしまい、本来の意味で使うのはフォーマルな場では気が引けるという弊害が生じてしまった。
[編集] 語源が誤解されているもの
- 書き入れ時
- もと商人言葉。帳簿に儲けを「書き入れる」ことの意から、もっとも繁盛する時期。→×利益を「掻き入れる」と勘違いされた結果、当用漢字にない「掻」が仮名書きになってしまった。
- 皮切り
- 最初に据えるお灸の意から、物事の手始め。→×妊婦が最初の赤ん坊を生むとき、腹の皮が切れるような痛さで苦しむことと誤解してしまっている。
- 誤魔化す
- 「護摩」とは、現代でもお盆の迎え火・送り火にくべる焚き木であり、この灰を弘法大師のお恵みがあると偽って売り歩いたペテン師がいた。いつの間にか語源が忘れられ、胡麻にたかる蝿が見分けがつかないことから、東海道五十三次の時代には置き引きの常習犯が「胡麻の蝿」と呼ばれるようになったのである。また「ごまかす」も語源は同じで、「誤魔化す」は当て字。「胡麻菓子」という粗末な菓子は、見た目は美味そうに見えるのだが食べてみると全然美味しくないので、前述の「胡麻の蝿」に「だます」を強調し、侮蔑する意を込めて言う「だまかす」の「かす」をつけたもの。現代では「誤魔化す」のみが生き残ったが、いつの時代にも詐欺師というのは存在したものだ。
[編集] 敬語の表現に関するもの
[編集] 「あげる」の誤用
ここで扱う「あげる(上げる)」は、
- 神仏や敬うべき人などにある行為がなされる。
- 「与える」「やる」を、その相手を敬っていう語。
- 動詞の後に付いて(「・て-」の形で)主体が動詞の表わす行為を他者に対し恩恵として行なう意を示す言い方を作る。「てやる」の丁寧な言い方。
である。したがって、本来であれば目下のものに対して使うのは適切ではないのだし、況して人間以外の生き物や物質(有機物・無機物)に対して用いるのは相応しくない。だが、前者については百歩譲って認めて良いのではとしても、後者に関しては明らかに行き過ぎとする意見が大勢である。一方では、「八百万の神」に表されるように、森羅万象あらゆるものに神性を見いだし敬い尊ぶという日本人の心性からすれば、動植物や無機物に対して「あげる」という表現は許容されるとの意見もある。
- 動植物を対象とした誤用
×花に水をあげる→○やる
×犬(猫)に餌をあげる→○やる
- 下はペットなど飼育動物に対する事例。動物だって植物などと違って意思を持っているのだから、同等に接するべきという意味からすれば、あながち間違いとはいえない。
- 物を対象とした誤用
×大根は細く切ってあげましょう。→○切っておきましょう(切りましょう)。
×ここに線を引いてあげる→○ここに線を引く
×お肌に塗ってあげる→○肌に塗る
[編集] 二重敬語
万葉集の時代からあり、古典文学にも頻出する表現である。第二次世界大戦後になって、平等社会にふさわしくないとして好ましくない表現とされるようになった。当時は、天皇への言葉、貴族が位の下の者がの位の上の者へ言った言葉を話すときの言葉(二方向敬語)等、3段階以上の階級が存在する時に使う。現在では天皇家に対する言葉では政治的中立性確保のため二重敬語を避ける場合がある。
[編集] 慇懃無礼
慇懃無礼(いんぎんぶれい)とは、表面的には改まって(かしこまって)いるようだが、実際には尊大または厚かましく失礼に当たることの意。
×おめでとうございました。→おめでとうございます。
- 後述「×とんでもございません」と別な、用法の誤り。
×課長、ご苦労様でした。→ありがとうございました。(お疲れ様でした。)
- 「ご苦労様」とは、本来は目上の者が自分と同等か目下の者に対して労う時に用いるべきであるが、勘違い(混同)して目上の者に対して使ってしまうのが表記の事例である。したがってこの際は「お疲れ様でした」これも目下にまたは同位のものに向かっての言葉なので、正式には「ありがとうございました」が正しいだろう。ただ、上下関係を問わず「お疲れ様(でした)」に統一することもある。
×愚母がお世話になります。→「母」が望ましい
- 謙譲語では、話中に登場する第三者が家族である場合「愚」を付けることがある。これを謙称という。最近は話し手のきょうだいや配偶者、子供に絞られている。したがって、例に挙げた以外にも「愚父」や「愚祖父(母)」などは控えた方がいい。もっとも、身内を貶めてまで相手を立てるのはそれこそ慇懃無礼と捉え、殆ど聞かれなくなった表現であることも事実である。
×社長さんはいらっしゃいますか。→単に「社長」でよい
- これは敬称の重複。「社長」「部長」「専務」などは、それ自体が敬称になるので、「さん」を付けるのは軽蔑に当たる。
×確認していただけないでしょうか。→確認して下さい。
- 「~してください」という表現を使うことで相手に「何だこいつ、俺に指図するのか」と思われたくないので、深慮遠謀で「~していただけないでしょうか」という言い方をせざるを得ない場合がある。だが、相手が嫌だと断わったら取り下げるわけにいかないのであれば、きちんと正直に右の正しい表現を使うべきである。
×存じ上げておりませんけれども(存じ上げておりませんが)。→「けれども」、「が」は余計
- 忘れ物や落し物をしてしまった時など、受付に確認しようと思って聞いたのにつっけんどんに返ってきた答え。この事例では語尾上げを伴い、「存じ上げていませんよ、何か文句ありますか?」と言われている感じだし、「だから、何が言いたいわけ?」と聞きたくなってしまう。こうした場合はきちんと言い切るべきである。
×どちら(どなた)様ですか?→どちらよりおかけですか?
- 電話の応対での誤り。しばしばつっけんどんな口調を伴う。「ご用件は何ですか?」とも相通ずるが、いきなり誰に用があるのか疑われているようで不愉快に感じてしまう。小学生以下の児童・幼児が出たときに耳にする言い方であるが、子は親の背中を見て育つのであるから、親がこうした不躾な応対を教えているに違いなく、由々しき問題である。
×とんでもございません。→とんでもない(とんでもないことでございます)。
- 用法の誤り。「とんでもない」で一つの形容詞であり、「ない」の部分だけ敬語にするのは誤用。
[編集] 語尾上げ
[編集] 誤用しやすい言葉
[編集] 意味を混用しやすい言葉
- 「あやふや」か「うやむや」か
- 「嬉しい」か「喜ばしい」か
- 「嬉しい」は、望んでいた事態が実現して、心がうきうき、晴れ晴れとして楽しいことであり、「喜ばしい」とは愉快であること、満足すべきであること、喜ぶべきであることの意である。どちらも意味としては同じであるが、客観的または全体的な喜びである場合は両者とも用いられるものの、その逆、すなわち個人的または主観的な喜びを示す場合は「喜ばしい」とは言わない。
- 「おざなり」か「なおざり」か
- 「御座なり」とはその場凌ぎで間に合わせなことであり、「等閑」とは心を込めず、雑にすること、手付かずのまま放ったらかすことである。どちらも「いい加減な、ぞんざいな」という意味では奇しくも似ているので誤解しやすい。その場凌ぎな対応であれば「おざなりな対応」、中途半端な対応ならば「なおざりな対応」とするべきである。
二者の意味の類似から「おざなり」と「なおざり」の混交した「おなざり」という新語を作ってしまい、使用している人もいる。
- 「信用」か「信頼」か
- 「信用」は、人の言動や物事を間違いないとして受け入れることであり、「信頼」は、信じて頼ることである。いずれも書いて字の如く、信じることが大前提としてあるわけだが、前者がある程度の疑いを伴うのに対して、後者は揺るぎない、絶対に間違いないとして受け入れることである。従って、信頼の代わりに使うのは、多少俗な表現といえる。
[編集] 音便に関するもの
ここでは、間違えやすい清音・濁音・半濁音などの表現(連濁)について挙げる。
- おんぼろ車 - ○おんぼろぐるま ×くるま
- 漫画本 - ○まんがぼん ×ほん
- 舌鼓 - ○したづつみ ×したつづみ
- まず「つづみ」の第一音を濁音化し続いて第二音を清音化する複雑な音便の例。同様に、小鼓(○こづつみ)、大鼓(○おおづつみ)。但し、これらに関しては伝統芸能の世界でも表記がぶれ始めており(特に△おおつづみ)、「誤用」から「変化」の段階に進みつつある。
[編集] 同音異義語
「同音異義語」とは、発音が同じで意味が違う言葉のこと。誤用されやすい言葉の代表格といえよう。和語で言えば、たとえば農家で出荷した作物が買われて儲けが出る意の「売れる」のか、作物が熟す意の「熟れる」のかごっちゃになることはあるし、ペットショップでペットをお金を出して「買う」のか、家族の一員として「飼う」のか、間違えることが稀にあるようで、注意が必要であろう。
[編集] 同音異字
[編集] 同訓異字
[編集] 接頭辞
[編集] 否定を表す語
漢字語で否定文を形成する場合、
がそれぞれ適切に使われてきた。
古くから慣用化されている語ではそのまま使い分けられているものが多いが、最近ではこれらがごっちゃになってしまい、とりわけ何でも「非」または「未」を付けてしまう場合が多い。また、確かに間違いではないが状況に合わせた使い分けがなされないことも多々ある。
悪い例:
明らかな誤用
不適切な使い方による誤用
希望的観測によって生じた誤用
[編集] 超の濫用
- 「超」は「超過」「超越」の熟語が示す通り定義範囲(上限)からの逸脱を示す字であり、「~すぎて最早~とはいえない」の意で、特性の突出とカテゴライズの否定を同時に表す。したがって超えるべき上下限がそもそも想定できない多くの形容について、この字は本来添えることが出来ず、名詞に付加することで、(元来)存在しない上位カテゴリを指し示すのが正しい使い方である。すなわち「超人」は「もはや人とはいえない存在」で「人」ではなく、「超特急」は「特急を超える速度の列車」であって「特急」ではない。またここで「特急」は「特別に急ぐ」という形容ではなく、「特別急行列車」というカテゴリをあらわしていることを理解するのが肝要である。同様に「超ヘビー級」「超高層ビル」「超豪華客船「超合金Z(架空の合金)」などの語の成り立ちは「超・ヘビー級」「超・高層ビル」「超・豪華客船」「超・合金Z」である。これを「超ヘビー・級」「超高層・ビル」「超豪華・客船」「超合金・Z」と誤解した者等が、誤って形容の強調と認識した部分を独立で使用することにより、「超」の誤用例が広まった。
- まして、1990年代に流行した「チョーすげー」「チョームカつく」などの俗用法は、語義的には限度を超えてしまって「すごいと感じられない」「ムカつきもしない(馬鹿馬鹿しくて腹もたたん)・胃に違和感が全くない」状態を表すことになり、極度の感動や甚だしい立腹を表現する用法としては多重的な「超誤用」である。この現象を呼ぶには「超・超」(本来の意味からかけ離れた用法)という言葉が適切かもしれない。「規範に照らすと誤用であるけれども、全面的に否定するのは好ましくない」という意味では、以下に記す接頭辞「的」と相通ずるところがあるかもしれない。
[編集] 接尾辞
いずれも若者を中心に用いられている誤用。
- ~感
- ~系
- ~的
[編集] 格助詞に関するもの
[編集] 「たり」の脱落
たりとは、同類の動作・状態が繰り返し起こる意を表わす助動詞で、「-たる」が語源。物事を並列して述べる際に使う場合は「-たり-たりした」とするのが規範的である。しかし、いちいち「-たり」を付けるのがまどろっこしいとか、乱用だという考えから、竜頭蛇尾な
×洗濯したり、掃除した→掃除したりした
のような誤用や、
×強制解雇されたり、左遷されるなどの処分を受けた→左遷されたりするといった
といった、「~などする」「~するなど」で代用してしまうことが多い。
[編集] 副詞の誤活用
[編集] 助数詞の誤用
助数詞とは、事物の数量を表す時に用いる語。
[編集] 外来語に関するもの
[編集] 読み方によるもの
- 人間ドックか人間ドッグか - 濁点・半濁点の混乱と不正な付与・除去
ドック【dock】とは、船舶の点検・修理を行なう施設のことで、人間ドックは病院に滞在して総合的な健康診断を受けることである。したがって、ドッグ【dog】=犬では意味が成立しない。こうした誤用は×ハンドバック(○ハンドバッグ)、×ジャンバー(○ジャンパー)などでも見受けられる。
- コンピューターかコンピュータか - カタカナ語尾の長音符の除去・付与
専門的な表現を中心として、「コンピュータ」「エレベータ」など、長音の「ー」を省略した表記が目立つ。これは、JIS規定での表記法が省略した表記であることが多いことに由来するが、実際には「こんぴゅうたあ」「えれべえたあ」と発音されることが多く、稀にそのまま伸ばさず発音する場合もある。
表記しない例としては「コンピュータ」、「サーバ」、「メーラ」、「ヘッダ」等が、表記する例としては「エレベーター」、「サッカー」、「ピーター」(人名)等が挙げられる。なお、国語審議会が策定した内閣告示では、原則として省略しないこととなっている。これとは別に、「データ【data】」を「データー」、「ソファ【sofa】」を「ソファー」と長音を付けるのは俗な表現である。しかし、やはり明らかな間違いとまではいえない。
[編集] 近年の傾向
[編集] 外来語のらん(乱・濫)用
本稿の趣旨とは多少外れるが、国立国語研究所の外来語の言い換え提案で示されているように、漢語を含め外来語を不必要に多用することは、本来の日本語(和語)の退化につながるとの懸念が指摘されている。たとえば、テレビなどの影響で主に芸能人が「リアクション(受け答えの意)」、「オフレコ(ここだけの話、の意。本来は放送で使用されなかったテイク)」というのを、そうでない人が面白がって使うことは若者を中心に少なくないが、こうしたことが定着してしまうと、いざというときに困ってしまう危険性は否めない。
[編集] 関連項目
- 日本語における外来語の事例集
- 日本語における外国語の誤用
- 日本語の乱れ
- 日本語の変化
- 現代仮名遣い
- 同音異義語
- 常用漢字
- 当用漢字
- ま(交)ぜ書き
- 和製英語
- 現代用語
- 若者言葉
- 流行語
- 死語
- 俗語
- 新語
[編集] 外部リンク
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