国鉄155系・159系電車
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国鉄155系電車(こくてつ155けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1959年に開発した修学旅行列車(修学旅行のための団体専用列車)用の電車である。製造当初は82系電車と称したが、すぐに改称された。使用された列車名から「ひので形電車」と呼ばれる。以後1961年、1964年の3次にわたって48両が製作された。
国鉄159系電車(こくてつ159けいでんしゃ)は同様の目的で1961年に製造された設計変更型で16両が製造された。
両系列は関連性が強いことから本項で一括記述する。
どちらも1950年代末期、いわゆるベビーブーム世代が中学生となり、東海道本線を通過する修学旅行客の輸送需要が激増したことから、その効率的輸送のために特別に開発されたものである。性能は1958年に登場した準急列車用の153系電車に準ずる。
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[編集] 155系
[編集] 製造の経緯
[編集] ベビーブーム世代の修学旅行輸送
第二次世界大戦の終戦直後の数年間、日本ではベビーブームが起こり、出生数が急激に増加した。この時期に生まれた世代がのちに「団塊の世代」と呼ばれ、日本社会の様々な面に大きな影響を与えるのであるが、昭和30年代に入るとこの世代に生まれた子供が中学校に入学し、修学旅行の時期を迎える。
当時の中学校の修学旅行は、関東地域からは京都・奈良方面を、また関西地域からは関東方面を行先としていた。当時は航空運賃が非常に高額であり、新幹線や高速道路も全くなく、国道1号線でも未舗装区間があるため、一般市民が利用することのできる東京~大阪間の交通機関は東海道本線だけといっても過言ではなかった。
ベビーブーム世代の中学生を対象とした修学旅行が実施されるようになると、生徒の人数が非常に多いことから通常の定期列車には乗せることができなくなり、専用の臨時列車が仕立てられることになった。当時は長距離列車についてはまだ機関車の牽く客車列車が主力の時代で、修学旅行列車についても客車列車が組成された。
しかし当時の国鉄は慢性的輸送力不足の状態であり、必要な客車は、全国各地から予備車両を無理矢理都合してかき集められた。「とにかく『客車』であればいい」と、戦前の老朽車や、背ずりが板張りの普通列車用車両などもお構いなく使われた。従って各車両に設備面での差があった。また当時の客車列車のドアは自動ドアではなく、いつでも乗客が自由にドアを開閉できる手動ドアになっていた。このため、走行中に、生徒が不注意や悪ふざけでデッキから転落する事故がしばしば起こった。通過列車待避のため停車した駅で生徒が勝手に下車し、ホームに取り残されるハプニングも日常茶飯事だった。
[編集] 電車による修学旅行輸送
国鉄は1958年6月に、姫路電化用に製作された80系電車を使って、品川~京都間に修学旅行用臨時列車を運転開始した。電車はすでに自動ドアが標準であったので、走行中や途中駅で勝手にドアを開閉することは鉄道に対して知識を持った人間でなければ不可能であり、生徒の転落事故や行方不明騒動が防がれた。しかも従来の客車列車より格段に俊足で、「急行列車並に速い」と好評を得た。だが、80系は本来が普通列車用でトイレが少なく、3等車(現在の普通車)には洗面所もないため、長距離乗車にはやや不適な面もあった。
当時の学校関係者によって構成された東京都修学旅行委員会は、80系電車の実績に基づき、国鉄に「専用電車の開発」を要望した。しかし、国鉄にはその要請に応じる資金がなかった。窮余の一策として、新型電車製作用に「利用債」と言われる特別な債券を発行して資金調達することになり、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)と日本交通公社(現・JTB)が、この利用債を引受けた。
こうして、「修学旅行専用設計」という、前代未聞の電車が開発されたのである。
[編集] 構造
[編集] 車体
前面はパノラミックウインドウ、正面貫通スタイルのいわゆる「東海形」で、153系電車とよく似ている。デッキ付き2ドア、2段式ユニット側窓なども153系と共通している。
屋根は浅く低いフラットな形状で、やや風変わりな外見となっている。これは、修学旅行シーズン以外の臨時列車としての運用時に、トンネル高さの条件で架線高が低い中央東線に入線することを考慮したもので、パンタグラフの折畳み高さを低くしている。後年、同じような目的で製造された他系列の「800番台」車両ではパンタグラフ部分の屋根だけが低くなっている車両が多いが、この当時にはそのような発想はまだなく、本系列では全車両の屋根を低くし、全体的なデザインの統一を図っている。通風器は、153系の押込形に対して通勤電車用の構造の簡略なグローブ形(1964年以降の増備車では押込形に変更)とされ、153系で装備された運転台正面下部の排障器(スカート)も省略されている。これらの変更により、若干ながら鋼材使用量も減って軽量化された。
修学旅行用車両なので乗降頻度が低く、乗降の迅速性を図る必要が特にないことから、ドアは当初は折戸式の採用が検討されたが実現せず、従来どおりの片側2扉の引戸式となったが、153系の1m幅に比して狭められ、特急形並の70cm幅となった。
車体塗色は、子どもたちに明るい印象を与えようと、朱色(ライトスカーレット)と黄色(レモンイエロー、1961年159系登場時にやや薄いカナリヤイエローに変更)の二色塗装(いわゆる「修学旅行色」)とした。1950年代の電車に一般的だった、青や緑系統の地味な色合とは一線を画するもので、当時としては非常に派手な塗装であった。塗分方も153系とは異なり、前面下部の塗分線が斜めになって貫通扉にかからないようになっている。なお、この塗色を決めるに当たっては、東京地区と京阪神地区の学校を対象に塗絵用紙を配布して1958年11月に公募が行われ、大阪市城東区の放出(はなてん)中学校の提案が採用された。
[編集] 車内設備
この電車の出自にふさわしく、他に例を見ないユニークなもので、国鉄技術者が学校や生徒の意見も取入れながら工夫を凝らしてまとめ上げた秀逸な内容である。
途中乗降の頻度が少ないことと、80系電車や客車に比べて車幅が最大10cm大きいこと、そして当時の中学生の体格も考慮し、定員確保のために通路幅を削って、片側の座席の横幅を広げ3人がけとした。少々窮屈ではあったが、その代り全席に定員分の頭もたれが設置され、仮眠を取りやすくしていた。貫通扉は中央の設置であるので客室端部の一列だけは両側とも2人がけの座席であり、加えて、全ボックス席に脱着式の大型テーブルが設置された。
扇風機は153系に比べ、多めに設置された(天井高さが足りないので、取付部分が屋根上に飛び出ている)。蛍光灯も枕木方向に多く設置され、夜行運転時に減光が簡単に行える構造だった。車室端のボックスは、急病者用の簡易ベッドにも使えるようボックスの間をクッションで埋められるようになっていた。
土産などで荷物が多いという事情に配慮し、通常窓際に連続して設置される荷物棚は、本形式では各座席上に枕木方向に設置され、広いラゲッジスペースが確保された。
洗面台は2人が並んで使える広さで、水筒への水汲みにも使えるよう飲料水タンクも設けられた。生徒が勝手に途中下車するハプニングは、水筒の水汲みにホームの洗面台を使おうとするのが最大の動機だったのである。当時はホームに旅客用の洗面台を備える駅が多かった。ごみ箱も、弁当殻などが多く出ることを考慮し、大型のものを設置している。トイレは利用の多さに対応するため、通常の和式トイレの他に、男子用小便所を設置している。
乗務員室助士席側にはテープレコーダーが設置され、引率教諭による車内放送の便を図った。これらに加えて、制御車のクハ155形については客室内にスピードメーターが設置された。これは車両メーカーである日立製作所の粋な計らいでサービスされたもので、運転台用の速度計回路を車室にも引込んだものである。残念ながら中間電動車には回路がないので、これを見られるのは運良くクハ155形に当たった生徒たちに限られた。運良く当たった生徒たちは、速度計を見て「今、時速何キロだ!」などと大喜びしたと伝えられている。その隣には電池時計も設けられた。このほか運転室側出入口助士席の後ろに跳上式の補助椅子が2脚設けられている。
[編集] 編成・走行機器
モハ154形(モハ82形偶数車 かっこ内は登場時の旧形式以下同一)とモハ155形(モハ82形奇数車)の中間電動車ユニットを、制御車のクハ155形(クハ89形)ではさむ(TcMM'Tc)か、片方を付随車サハ155形(サハ88形)とした4両編成(TcMM'T / TMM'Tc)を単位として、これらを相互に2本ないし3本連結した8両又は12両編成で運転された。臨時列車として中央本線や上越線に直通する場合には、制御車を2両外して強力な6両編成を組むこともあった。
機器類は一切を153系と同一仕様としている。従って153系との併結も可能となっている。最高速度も153系同等の110km/hである。ただし、153系の台車は空気バネ式だったが、155系では通勤形101系同様の金属バネ台車DT21A形になっている。これはコストダウンのためで、乗心地はやや悪くなったが走行性能上は問題なかった。付随台車は金属バネながら、ディスクブレーキ装備としたTR62形である。
[編集] 運転
1959年には、TcMM'TTMM'Tc2本、TcMM'Tc2本の24両が製造され、半数ずつが東京・大阪両地区に配属された。
東京地区の車両は田町電車区に配属され、1959年4月20日から品川~京都間に「ひので」の愛称で運転を開始した。また大阪地区からも東京方面への修学旅行用として新製の要望があり、同様な利用債方式で製作されて宮原電車区に配属、品川~明石間「きぼう」ほかの列車に運用された。これらの列車愛称は、中学生たちから募集・選考したものである。
どの列車も、当時は片道を夜行運転としていた。学校側は宿泊費節減と時間節約の策として、また国鉄側も限られた車両をフルに活用する手段として、当然のことと見なしていた。夜行列車での座席仮眠は当たり前の時代で、現代ほどには生徒の健康管理が厳しく問われなかった事情もある。
運転開始当初は、全額利用債により製造された本系列の両数に余裕がなく、12両又は8両編成が隔日で運行された。これは、車両の検査等を考慮して合理的運用を行なうための措置であった。
これらの修学旅行用電車は、急行列車並の高速運転と、旧型客車よりも優れた居住性で好評を得ることになった。これを受けて、1961年に2編成8両が、1964年にも4編成16両が増備され、東京(田町電車区)・大阪(宮原電車区・明石電車区)両地区に配置され、最盛期には16両編成での運転も実施された。
後年は、修学旅行も新幹線利用が一般的となり、本系列も修学旅行運用から外れ、座席も通常の両側2列に改めたり、荷物棚の交換(一般的な車体と平行に取付けるタイプに)、出入台広場の洗面所・飲料水タンクの撤去、トイレの改造(男子用を撤去してその跡を洗面所に)などの室内改造を施工の上で一般の臨時列車に使用される頻度が高くなっていった。また、室内改造施工車は、153系などと同様の緑とオレンジ色の「湘南色」に改められた。大阪地区配属車は、1974年12月に中京地区(大垣電車区)へ転属し、153系、159系と混用で主に東海道本線豊橋~大垣間の快速運用に充当されたが、急行「東海」や「大垣夜行」に充当され上京することもしばしばであった。
本系列は、1980年から廃車が始まり、1982年に全廃された。臨時列車用であったためか、最後まで冷房装置が搭載されることはなかった(後述159系も同様)。
[編集] 159系
東京や関西からの修学旅行生徒たちが東海道本線上を「ひので」「きぼう」で往来する姿を見ていた中京地区の学校関係者からも、利用債方式による修学旅行専用電車導入の要望が出され、1960年に登場する予定だった。
そんな中、伊勢湾台風により利用債の引受が1年延期となり、車両の新製も延期された。
しかし、国鉄は153系の予備車をやりくりして予定通り修学旅行専用電車「こまどり」を運転して関係者から喜ばれ、「愛の電車」として讃えられた。そして、翌1961年に159系が新製されたが、東京・関西地区ほどには年間の利用度が高くないと判断した国鉄は、155系と同一仕様の車をそのまま中京地区に投入することはしなかった。
159系は、153系とほとんど同一構造の車両である。外見こそ155系同様の低屋根構造と狭幅ドア、塗色も朱色と黄色の「修学旅行色」で、台車も同様の金属バネのDT21A形(TR62形)であるが、車内設備は通常の両側2列座席、荷物棚も壁際に連続して設置した通常型で、男子用小便所もない(かわりに物置・掃除用具入れ・屑箱が設置された)など、一般車に近い構造となった。もっとも、修学旅行用として大型テーブルの装着は可能であり、制御車クハ159形の客室には、スピードメーターと電池時計も設置された。休養室も設置されているが、155系と異なりこしかけとんを引出すと背ずりも水平になる方式に改良されている。通風器に関しては、大垣~米原間の降雪地帯での運用に配慮して153系と同様の押込形に変更されている(155系も田町電車区配置車は後年改造された)。
このような「普通の電車」となった理由は、修学旅行専用電車としての運行が比較的少なく、むしろ一般客向けの臨時列車にあてられることが多いと判断したためであった。従って居住性も通常の水準に引き上げられたのである。
1961年にモハ159形・モハ158形3ユニット、クハ159形4両、サハ159形2両の計12両が製造され、大垣電車区に配置された。4月9日から修学旅行用として東京・品川~大垣間の「こまどり」に用いられたほか、一般客向けの臨時準急「ながら」などにも用いられ、「ながら」や車両運用の都合で「東海」に運用された時は、153系の1等車(グリーン車)サロ153形を借用して連結した。
1962年にはモハ159形・モハ158形1ユニット、クハ159形2両の計4両が増備され、大垣電車区に配置される。これにより「こまどり」は毎日12両編成で運用できるようになった。また同年秋からは中国地区~中京地区間不定期修学旅行列車「わかあゆ」としても使用された。
晩年は155系などと混用され、車体塗色が湘南色に改められたのも同様である。しかし、全車には及ばずモハ159/158-1・2、クハ159-2、サハ159-1の6両は修学旅行色のままで廃車されている。湘南色の塗分は155系が153系と同一であったのに対し、クハ159形の前面はオリジナルの塗分ラインが引継がれた(クハ159-1のみ塗分はクハ153形と同じ)。1980年に全車が運用を退き、製造からわずか19年で廃車解体された。161系の3年、157系の17年(貴賓車とその牽引用車を除いた車両の実働期間)に次ぐ短命系列であった。
[編集] 参考文献
星晃「回想の旅客車」(交友社)
福原俊一「国鉄急行電車物語」(JTBパブリッシング)
福原俊一「155系・159系修学旅行電車」(車両史編さん会)
三宅俊彦「大垣電車区のクイーン物語」(プレス・アイゼンバーン「レイル」No.52)
[編集] 関連項目
- 日本国有鉄道の直流用新性能電車 (■JRを含む全一覧 / ■カテゴリ) ■Template ■ノート
- 修学旅行列車
- 団体専用列車
- 急行形車両
- 近鉄20100系電車「あおぞら号」
- 近鉄18200系電車「あおぞらⅡ」
- 近鉄15200系電車「あおぞらⅡ」
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