嘉門達夫
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嘉門 達夫(かもん たつお、男性、1959年3月25日 - )は、日本のシンガーソングライター。大阪府茨木市出身(両親は山口県下関市の出身)。血液型A型。本名は鳥飼 達夫(とりかい たつお)。代官山プロダクションの所属で、現在の所属レコード会社は傘下のDAIPRO-X。結婚はしておらず、現在も独身(一時期、婚約を発表したものの後に解消している)。兄弟は弟と妹。弟妹共完全な素人なのだが、妹の方は一時期嘉門のファンクラブの会報に寄稿したり、当時嘉門が担当していたラジオ番組にゲスト出演した事もある。
「替え唄メドレー」などのパロディー音楽や「鼻から牛乳」などのコミックソングを得意とするシンガーソングライターとして広く知られており、これまで多数のCDシングル、CDアルバム、ビデオをリリースしてきている。
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[編集] 略歴
- 少年時代は、大阪万博と小学校当時担任だった先生の国語の授業に多大な影響を受ける(以後国語の成績は、常にトップクラスだったらしい)。また山口百恵の大ファンで、追っかけをしていた高校生当時には、彼女が通ってた学校迄足を運んだ事もあると言う。
- 嘉門自身がラジオの深夜放送にのめり込みだしたのは、中学生になってから。後に嘉門は『MBSヤングタウン』(以下「ヤンタン」)のレギュラー出演者になるのだが、中学生当時の嘉門自身もヤンタンのヘビーリスナーであった。番組宛てにネタを投稿するハガキ職人として活躍し、ネタハガキの採用率も高かった様だ。そしてこの頃から、ラジオのパーソナリティーになりたいと言う憧れを抱く様になる。
- 1975年 - 大阪府立春日丘高等学校在学中の嘉門が16歳の時に、笑福亭鶴光(当時26歳)に弟子入り。友人が運転するカブで鶴光を追跡し、弟子入りを志願。弟子入りが決まった当初の嘉門は高校在学中だったので、放課後師匠の家に行く所謂「通い弟子」であった。高校卒業後には内弟子となる事が決まっていたのが、春日丘高校は地元でも有数の進学校であり、クラスで大学進学しないのは嘉門だけだったと言う。卒業式では答辞を務めたが、羽織袴でギャグを挟みながら生徒から集めたアンケートを元にディスクジョッキー式の答辞を行うと言う大胆な行動をとった。高校卒業後は鶴光邸に住み込み“笑福亭笑光”(しょうふくてい しょうこう)と名乗る様になる。所属は松竹芸能。鶴光に弟子入りした理由は、当時嘉門は桂三枝に憧れていたが桂と言う屋号には魅力を感じず、同時に笑福亭仁鶴が出演していたラジオ番組「ABCヤングリクエスト」も良く聞いており、笑福亭と言う屋号には強い憧れがあったそうだ(なお、嘉門が現在でも、トークの合間に無駄口を叩いた後で「色んなコト言うたりなんかして」と口癖のように言ったり、投稿のハガキを読む際に「下品なペンネーム」に対していちいちツッコミを入れたりするのは、仁鶴譲りであるといえよう)。しかし当時から仁鶴には既に多くの弟子が居た為に、同じ笑福亭と言う屋号で、当時ラジオで人気急上昇中だった鶴光に弟子入りを申し込んだと言う。ちなみに、もし仁鶴に弟子入りしていたら、名前を「笑福亭加仁(かに)」にしたいと妄想していた。一方、鶴光に弟子入りした際に「笑福亭光茶」(こうちゃ)と名乗ろうとしたが、こちらは鶴光に却下された。
- 1978年 - 『MBSヤングタウン』にレギュラー出演。
- 1980年 - 笑福亭鶴光から破門を宣告され、担当番組も全て降板。松竹芸能も退社。その後「自らを見つめ直す」と言う理由で、程なくして日本放浪の旅へ。与論島やスキー場でアルバイトをしながら今の「ギャグソング」のスタイルに行き着き、自らの目指す方向性を確立する。
- 1981年 - 日本を放浪の後に「次は海外へ放浪しようか」と考えていた頃にアミューズの会長大里洋吉氏に拾われ、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」をアミューズの社員として有線等への営業回りしていた。その縁でサザンのコンサートの打ち上げ等にも参加したりして、バンドフロントマンの桑田佳祐とも面識が出来る。その後桑田とも親しくなり、桑田に自らの芸名を考えて欲しいと依頼(桑田に依頼した理由は、所ジョージの芸名の名付け親が、ミュージシャンの柳ジョージだったと言う話に起因していると、後に本人が語っている)。最初桑田は「カメリア・ダイヤモンド」と言う名前を考えたが、その後桑田が別の活動の時に使用していた“嘉門雄三”の苗字を譲り受ける。(しかし当の桑田本人は譲った覚えは無いらしく、知らない内に嘉門が使っていたらしい)そして以降“嘉門達夫”と名乗る様になった。その後、ヤングタウンにも復帰する。
- 1983年 - 「ヤンキーの兄ちゃんのうた」をリリース。読売テレビ有線放送大賞とTBS有線大賞で新人賞受賞。
- 1991年 - 「替え唄メドレー」が75万枚のセールスを記録。自身最大のヒット曲となる。
- 1994年 - 1月1日に発売した「スモーキンブギレディース」を皮切りに、月に1枚のペースでシングルを出してゆくという「マンスリーCDリリース計画」を開始。
- 1997年 - ビクターから代官山プロの自社ブランド「DAIPRO-X」へと移籍。移籍第1弾「ソリャニャーゼセニョリータ」をリリース。
- 1999年 - アルバム「お前は間違っとる!」をリリース。
- 2000年 - トレードマークであった黒髪のオールバックから金髪へとイメージチェンジ。
- 2002年 - 後にはなわに盗作疑惑がかかるという「ガッツ石松伝説」リリース。
- 2003年 - 4月 デビュー20周年記念アルバム「達人伝説」をリリース。
- 2003年 - 6月 初のDVDメディア作品「達人伝説」をリリース。
- 2004年 - 11月 「シングルベストコレクション2」をリリース。
- 2005年 - 1月 コロムビア時代の曲を集めたアルバム「嘉門達夫ゴールデンベスト」リリース。
- 2006年 - 4月 「働くオジサン宣言 ~関白宣言~」など収録したアルバム「笑撃王」をリリース。
- 2006年 - 7月 USEN のパソコンテレビ「GyaO」の番組『嘉門達夫のナリキン投稿天国』から誕生した“嘉門達夫とナリ天ボーイズ”が歌う「恋のチャルメラ ププッピ ドゥー!」をリリース。
- 2006年 - 12月12日放送分 細木数子にTBSテレビ「ズバリ言うわよ!」の鑑定で芸名を「嘉門」から「加門」へと改めるよう進言された。改めると画数が13画となる。
[編集] 代表曲
本人によると、自身の発表するコミックソングは概ね以下の3つにカテゴリ化できるという。
- あるあるネタと俗に呼ばれる、特定の法則や日常ありがちな現象などの指摘
- 言葉遊び(駄洒落や替え唄など)
- 反実仮想(「もしもこんな物事が実際にあったら」的なネタ)
- あったらコワイセレナーデシリーズ
- ウシ
- その他(特定の番組や人物に対する風刺や、コミックソングではない通常の恋愛ものバラードなど)
[編集] 出演
[編集] テレビ番組
ここではレギュラーで出演していた番組のみを列記。
- 1987年12月~1988年10月。
- 探偵!ナイトスクープ(テレビ朝日系列、制作:朝日放送)
- 1988年3月~?
- 土曜深夜族(TBS系列)
- 1988年4月~1989年1月。
- 1988年10月~1991年3月。
- 噂の!東京マガジン(TBS)
- 1989年10月~?
- ラジごめII金曜日の王様(中京テレビ)
- 1991年4月~1993年6月。
- 嘉門達夫のお達者ワンダーランド(読売テレビ)
- 嘉門達夫のナリキン投稿天国(インターネットテレビ・GyaO)
- 2006年4月~。
[編集] ラジオ番組
ここではレギュラーで出演していた番組のみを列記。
- “笑福亭笑光”名義では1978年4月~1980年9月、“嘉門達夫”名義では1982年10月~1992年9月。
- 1985年10月~1986年3月。廃盤の『寿限無№1』を番組内でかけている。
- 1986年10月~1987年3月
- MAZDA・ウィークエンドパーティー(MBSラジオ)
- カモンコンピュート(FM大阪)
- カモン!タツオ ワールドエンターテインメントショー(JAPAN FM NETWORK)
- 1991年4月~1993年3月。
- 爆裂スーパーファンタジー(JAPAN FM NETWORK)
- 嘉門達夫のネットでごめん!(インターネットラジオ・ラジ@)
- 2001年4月~2003年12月。コンテンツ開始前の2001年3月18日に一度スペシャル放送の回が試験的に行われた。
- 嘉門達夫の万能塾(インターネットラジオ・キャステラ)
- 2006年3月~2006年5月。
[編集] CM
- カルビー「ポテトチップス・辛みそソース味」 - 1990年10月。
- 日立マクセル - 1992年3月。
- 福武書店「進研ゼミ中学講座」 - 1993年1月、1994年1月。
- エクシング「JOYSOUND」 - 1994年3月。
- カプコン「ロックマンズサッカー」 - 1994年。
- 日清食品「日清ラーメン・こってりんこ」 - 1994年。牧伸二、ローリー寺西との共演。
- サークルK
- 岩下食品「岩下の新生姜」 - 声のみの出演。
- 大阪海遊館 - 2005年7月。
[編集] その他
- カモン! 関門キャンペーン(中吊り広告)
- 2005年10月6日~2006年3月31日。「カモン!関門行進曲」というキャンペーンソングの制作も手掛け、歌った。
[編集] エピソード
- 「替え唄メドレー」シリーズは多数の楽曲を扱っているが、中には著作権の問題などでCD化に至らない曲も多い。詳しくは替え唄メドレー#著作権問題などに関してを参照。
- 一方、同シリーズ内で歌われた都市や観光名所(津市や下呂温泉など)からは、「地元の宣伝をしてもらえた」ということで、感謝の意を表されることもあるという。
- 彼の曲の中でも完成度が高かった「サザエさんグラフィティ」は、『サザエさん』の原作者長谷川町子の存命中はCDリリース許可が得られず、ライブでは披露していたがCDリリースによる発表はまず無理だろうと思われていた。しかし歌詞にあるきつい下ネタ部分などを一部差し替え、のちに「NIPPONのサザエさん」としてCD化された時はファンを驚かせた。ライブでは今もこの曲を非認可バージョンの歌詞で歌う(こともある模様)。
- 笑福亭鶴光一門から破門となった原因は「サルに自慰行為を教えると死ぬまでやりつづける」という噂が本当か、師匠が飼っていたサルで実験した為。
- 「ヤンキーの兄ちゃんのうた」以前の1982年に「寿限無No.1」という幻のデビュー曲を発表しているが、売れたのはたった200枚だけだった。
- CDレンタルに対しては極めて否定的で、露骨に嫌悪感を示している。本人曰く、「借りると呪われる」との主張。しかし、『爆裂スーパーファンタジー』の放送内では「レンタルで借りる人を余り悪く言うのも・・・」といった言動も見られ、ある程度の理解はある模様。同放送内では冗談を交えて自身のCDがレンタルされる事を語る事が多い為、本人なりのジョークであると考える事もできる。
- 1989年11月21日に「バルセロナ」というアルバムに「ハンバーガーショップ」という曲が収録をされているが、元々は1989年頃にライブやテレビ放映で披露していた「××××××(某ハンバーガー店)キラー」という歌。ハンバーガー店のマニュアル教育上がりの店員に来客が戦いを挑むというシチュエーションを風刺した内容であったが(これに加え美容室バージョンも存在)、思いっきり名指しであったためタイトルと歌詞の一部を変えた「ハンバーガーショップ」としてリリースすることとなった。この曲はアルバム曲であるにも関わらず有線でよくかかっている人気曲。その人気を経て「血液型ハンバーガーショップ」や「ハンバーガーショップ(国会編)」などの続編も作られている。なお、1995年12月1日に「激突!ハンバーガーショップ」というタイトルで歌詞を一部変更してシングルとしてリリースされている。
- 笑福亭笑光時代にレギュラー出演していた「MBSヤングタウン」にゲストで来た男女3人組の某ニューミュージック系グループに番組開始前にバイトと思われる扱いをされた。
- 出身校・大阪府立春日丘高等学校の後輩に槇原敬之がいる。嘉門と槇原でどちらが先に年末のNHK『紅白歌合戦』に出場するかを競ったが、槇原は1991年の紅白に出場が決定し、先を越される(嘉門は1992年の紅白に出場)。
- 幼少時代に日本万国博覧会(大阪万博)が近所で行われた際には毎日の様に通い、万博の記念バッジを貰ってコレクションしていた。『開運!なんでも鑑定団』に出演した際にそのバッジを鑑定してもらった所、15万円の鑑定額が付いた。嘉門は「このバッジは1000万円積まれても売らない」と言ったくらいそのバッジは大事に保管している。2005年に行われた愛・地球博にも出向き、ここでも多くのバッジを獲得している。また、大阪万博での思い出を歌った「太陽の塔」という歌もリリースしている。
- この他、バッタモノドリンクや、ホテルや旅館の客室にある使い捨て小型チューブ歯磨き粉なども収集している。
- 祖父がある日「銭湯に行く」と家を出てから行方不明になっており、嘉門はいつか祖父を捜しに行きたい、と語っている。
- 1993年頃以降は基本的に自身が看板のラジオ番組の仕事とライブイベントなどの地方営業の仕事が中心で、テレビ番組への全国ネット系の仕事は特に少ない(あるとしてもゲスト出演で呼ばれることがほとんど)。
- 30代の頃からずっと独身をネタに口にしているが、実際は1992年に一般の女性と婚約まで進んだ時期があり、その女性をコンサートに招待するほどまで進展したがお互いの微妙なズレが段々出てしまったことで解消してしまった。このチャンスを逃したせいかどうかは定かではないが、それ以降は結婚に関する話は今のところない。
[編集] 阪神・淡路大震災
- 翌日、大阪での仕事のためフェリーでの移動中、神戸の街が燃えているのを見て呆然となる。その時、友人の北野誠に電話し、「誠、俺はもうこれは世界の終わりや。一体どうなってしまうんや。もう俺自身はお金を持っていても意味はない」と延べ、500万円を即時寄付する。
[編集] 1997年以降の活動
- 1997年、所属事務所の代官山プロダクションが別途設立したDAIPRO-X(ダイプロ・エックス)へと移籍する。
- 41歳を迎えた2001年、下顎の贅肉のたぷつき具合を指摘されたのを機にダイエットに挑戦。始めた当初、すでに芸能界を引退していた上岡龍太郎に「たった2キロでもつらいのに上岡さんはすごい。でも、体重を絞るために続けます」というメールを入れたところ、「君はジョギングを冒涜している。動物は楽しければ走りたくなる。何かの為に走るというのは走ること自体を馬鹿にしている」という返信で一喝された。それでもめげずに穀物を控え、蒸しモヤシにおかずを乗せて食べるという食生活を続けたところ、1ヶ月で体重が7kg落ち見事ダイエットに成功。現在もそのスタイルを維持しており、また、これを機に黒服スタイルを変えずに黒髪のオールバックから金髪へと変えた。
- テレビのトーク番組などに出演する際、司会者などと会談するときは普通の眼鏡を、替え唄を披露するとき(即興は除く)は小さい丸ぶちのサングラスを装着する。そのため歌う前、または歌い終わると即座に眼鏡を交換するシーンを視ることが出来る。
- ビクター時代のCDはシングル・オリジナルアルバムともに現在全て廃盤となっている。2005年、そのビクター時代の音源を集めたベストアルバムが発売された。これは通常のレコード・CD店では扱っておらず、主に高速道路の各サービスエリア内にて販売されている。
- 2005年1月5日(現地時間)、アメリカ合衆国ニューヨークのライブハウス「アポロシアター」のステージに立つが観客からのブーイングによって強制退場させられた上、半年間出入り禁止のペナルティを受ける(これはブーイングが一定を越えた時のルールであり、嘉門が特別受けたペナルティという訳ではない)。しかし本人は再びチャレンジするつもりである。
- 音楽以外の活動としては、2005年3月7日から始めたコラム連載(デイリースポーツ『嘉門達夫のオモシロ人間交友録』 - 毎週月曜掲載、2006年10月からは毎週木曜掲載)、その他執筆活動がある。また、以前に自分の半生を描く演劇の企画が持ち上がった時は自身がその役を演じた。
- 2006年には、JR西日本のイメージキャラクターに採用された。
[編集] 関連芸能人
- 明石家さんま - 親戚弟子に当たる。プライベートでも世話になっている。
- 浅田美代子 - 1992年、「デュエット替え唄メドレー」で共演。
- あのねのね - 売れない時期、面倒を見てもらっている。その後同じ事務所(厳密には業務提携)に所属している。
- アル・ヤンコビック
- いんぐりもんぐり(→INGRY'S→THE INGRY'S→FoolyouS)
- 桂雀々
- 上岡龍太郎
- 北野誠
- 桑田佳祐 - 芸名の名付け親。嘉門はサザンのベストアルバム「すいか」のTVCMに出演したり、嘉門が出すサザンオールスターズの曲の替え歌も容認している。替え歌を作ったら先ず、桑田の自宅に電話し、電話越しに替え歌を唄って聴かせ、桑田は苦笑したのち「いいよいいよ」の一言でOKを出すという。
- SAICO(鈴木彩子)- かつて同じ事務所に所属。アルバム「宴」および「怒涛の達人」にゲストで参加。
- 笑福亭笑瓶 - 従兄弟弟子。
- 笑福亭鶴光 - 元・師匠。
- 笑福亭鶴瓶 - 叔父弟子。売れない時期から眼をかけてもらっていた。
- 丹波哲郎 - 「タンバでルンバ」は彼の大霊界語録が元ネタ。
- 新田一郎 - 事務所社長で、師匠格。
- 久本雅美 - 下積み時代からの友人。
- ブリーフ&トランクス - 事務所の元後輩。アルバム「笑う女」収録の”残尿感”で共演を果たす。
- 細木数子 -
- 前田日明 - 親交があり、アルバム「宴」に収録されている曲「宅配ピザ」に参加。
- 槇原敬之 - 春日丘高校の先輩後輩関係で、嘉門の出ていた当時のヤンタン火曜日にも、自身最初のヒット曲「どんなときも。」のプロモーションで出演したり(当時「どんなときも。」が発売されて間もなくの時だったので、槇原自身は世間的には全くの無名)、また嘉門のTVの特番にも配達ピザ屋のコスプレで1度だけ出演した事がある。
- 美輪明宏
- 吉田拓郎
[編集] 外部リンク
- TATSUO KAMON OFFICIAL HOMEPAGE - 公式ホームページ。
- Mr.タットTAN~嘉門達夫さん応援ページ~ - ファンサイト。嘉門達夫のディスコグラフィーや出演番組の情報などが記載。