松竹芸能
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種類 | 株式会社 |
略称 | 松竹 |
本社所在地 | 大阪市浪速区湊町一丁目4番38号 近鉄新難波ビル9F |
業種 | {{{業種}}} |
事業内容 | タレント・俳優の養成 演劇制作 |
代表者 | 代表取締役社長 安倍彰 |
資本金 | 1億6000万円 |
従業員数 | 80名 |
外部リンク | http://www.shochikugeino.co.jp/ |
松竹芸能(しょうちくげいのう)は、芸能事務所であり、松竹の関連会社である。大阪府大阪市に本社がある。吉本興業と並び、上方演芸界の2大プロダクションのひとつ。
目次 |
[編集] 沿革・特徴
1958年、大阪歌舞伎座の地階にあった歌舞伎地下演芸場に芸人を配給していた新生プロダクション(戎橋松竹の支配人だった勝忠男が興した芸能プロダクション)と上方演芸(秋田実を中心に設立された芸能プロダクション。勝忠男も関係していた。現・ケーエープロダクションのルーツ。)が合併。新たに松竹の資本参加を得て、前身会社である、松竹新演芸が設立される。
(ただ基本的には寄り合い所帯であった為、新生プロ勝派と上方演芸秋田派に別れしばしば衝突する事もあったが、秋田派が事実上出て行く形で、前記のケーエープロダクションが1968年に設立される。)
以降、道頓堀角座を中心に、神戸松竹座と新世界新花月に芸人を配給し、隆盛を極める。角座閉鎖後、同じ道頓堀の浪花座が所属芸人の本拠地となったが、浪花座は2002年1月に閉館。
2002年4月、道頓堀のパチンコ店の4階ホールを間借りし、みなみのど真ん中ホールを開館する。 このホールは、パチンコ店の4階にあるというだけでなく、3階で券をもぎり、すぐに階段を上り屋上を通過してホールへ入るというまるで隠し部屋のような場所であった。 昼は寄席、夜は若手芸人によるライブという2部構成がとられており、現在も同じ形が続いている。くしくもますだおかだ、アメリカザリガニの人気が急上昇し始めた頃と重なり、大盛況となる。 松竹芸能の若手芸人にとって、当時それまで月に一度しかネタを披露する機会を与えられていなかったがこのホールによりライブの回数は格段に増え、良い刺激や成長できる場所となった。ファンにとっては伝説といわれるライブも多数生み出されていた。
2004年1月道頓堀角座跡の角座ビル地下1階の居酒屋跡を松竹から賃借し、お笑いライブ空間として「B1角座」を開設。新たな常打小屋を確保して現在に至る。
2004年には、安倍彰が社長に就任している。
2006年には設立50周年を記念したロゴマークを作成し、制作を担当しているテレビ番組のエンドロールの社名の前に記している(なお、50周年というのは前述の上方演芸の設立年から数えたもので、松竹新演芸の設立から数えると今年で48年目である)。
また、三波春夫のマネージメントを皮切りに、演芸以外にも幅広く展開。「ザ・ハングマン」等のテレビドラマを制作する傍ら、ジャニーズ事務所関西公演の勧進元にもなり、俳優陣やレポーター、モデル、タレントも数多く抱える。また、新世界通天閣地下の新世界歌謡劇場の運営も行う。
1980年代以降、吉本興業に対して劣勢に立たされていた松竹芸能だが、近年ではオセロが大ブレイクし、さらに、よゐこ、ますだおかだ、アメリカザリガニ、安田大サーカスなどがゴールデンタイムの全国ネット番組に出演する好調ぶりで、吉本との差が縮まってきている。その好調ぶりからか、数年ほど前までは資本金が1千万円台だったのが、現在の4億円台にまで増資されている。
後述する「松竹DMC芸能」企画や、バッファロー吾郎・木村明浩が企画し吉本興業が主催する大喜利イベント「ダイナマイト関西」の予選では、松竹芸能所属芸人の参戦のためB1角座を予選会場として使用するなど、会社を挙げて吉本興業中心の番組やイベントに協力する姿勢も見られる。因みに、めちゃイケ大百科事典では、松竹芸能の蔑称として、「まつたけ」という用語の記載がある。
めちゃイケには、東京支社長であるコズモ難波こと難波規精(なんば・のりあき)が、よゐこのいずれかに激励するという役割で登場することがある。ちなみに、コズモ難波という名前は、同志社大学・プロレス同好会時代のリングネームである。
吉本興業に先駆け昭和43年に即戦力の新人タレントを発掘、供給することを目的として養成所が設立される。 基本的にはお笑い芸人に拘らない方針で、部門別で分かれており子役なども扱っている。
[編集] 主な所属タレント
[編集] お笑いタレント
- オセロ(東京)
- よゐこ(東京)
- ますだおかだ(東京)
- アメリカザリガニ
- 安田大サーカス(東京)
- 北野誠
- 春やすこ
- 森脇健児
- オーケイ
- なすなかにし
- オジンオズボーン(東京)
- チョップリン
- T.K.O
- せんたくばさみ
- Over Drive(東京)
- DA-DA
- 代走みつくに
- タケウチパンダ
- ヴェートーベン(東京)
- シンデレラエキスプレス
- いち・もく・さん
- のろし
- ワンワンニャンニャン
- フロントページ
- イアソン
- トライアングル
- ボルトボルズ
- チキチキジョニー
- 梅小鉢
- Jan2
- 鳳仙花
- ヒカリゴケ
- ダブルダッチ
- ピーマンズスタンダード
- だいなお(東京)
- つるせんねん
- 札幌マイスター
- 左ミドル
- 石垣明日花
過去
[編集] タレント
- 堀ちえみ
- 大八木淳史(東京)
- 河島あみる
- 高橋知裕
- あだち理絵子
- 井上智栄子
- シャドウ・リュウ
- いざわまり
- 松本美香
- アン☆ドゥ
- 尾崎彩香
- 三浦絵理子(東京)
- 江本理恵(東京)
- 片山淳子
- 南山千恵美
- 小川恵理子
- 河上ひろみ
- 大野紘美
[編集] 落語家
- 桂春団治
- 桂福団治
- 桂梅団治
- 桂朝太郎
- 笑福亭鶴光(落語芸術協会)
- 笑福亭里光(落語芸術協会)
- 桂春之輔
- 笑福亭松喬
- 笑福亭松枝
- 笑福亭呂鶴
- 桂春若
- 桂春駒
- 笑福亭鶴瓶(東京)
- 森乃福郎
- 笑福亭鶴志
- 笑福亭小つる
- 桂小春団治
- 笑福亭小松
- 笑福亭銀瓶
[編集] 漫才師
[編集] 歌手
[編集] 俳優
[編集] 過去の所属タレント
- 中田ダイマル・ラケット
- 夢路いとし・喜味こいし(預かり 大宝芸能所属)
- 藤山寛美
- ミヤコ蝶々(預かり 日向企画所属)
- かしまし娘
- 宮川左近ショウ
- タイヘイトリオ
- 森乃福郎(初代)
- 露の五郎兵衛(当時桂春坊→桂小春団治(2代目))
- 笑福亭松之助
- 海原お浜・小浜
- 若井はんじ・けんじ
- 平和ラッパ・日佐丸
- 太平サブロー・シロー(現・吉本興業)
- 青芝金太・紋太
- 山田雅人
- パート2
- 笑福亭笑瓶(現・太田プロダクション)
- 東ちづる(現・ホリプロ)
[編集] 養成所出身タレント
- 春やすこ・けいこ
- パート2
- 森脇健児
- 山田雅人
- よゐこ
- オセロ
- ますだおかだ
- -4°C
- T・K・O
- アメリカザリガニ
- アン☆ドゥ
- 田中まさみ
- 安田大サーカス
- オジンオズボーン
- なすなかにし
- チョップリン
- せんたくばさみ
- シンデレラエキスプレス
- ヴェートーベン
- オーケイ
- トムコリンズ
- Fun Park
- ミラール
- レイカーズ
- HTH
- 長尾 恵里香
- 正源敬三
[編集] 関連記事
[編集] 吉本興業との関係
松竹の演芸進出は1927年に遡る。吉本興業は松竹所有の道頓堀弁天座で諸芸名人会(萬歳大会)を興行して大成功を収めた。これを見た松竹社長(当時。のち会長)の白井松次郎は自らも演芸進出を企てる。間もなくその資金力を背景に当時吉本に所属していた人気芸人を高額ギャラで釣って次々と引き抜いたため怨恨が発生。吉本の林正之助総監督(当時。のち会長)が松竹大阪事務所に乗り込み、脅しに行くという事件が発生したと言われている。この一件は白井が林に非礼を詫び、「松竹は吉本の芸人に一切手を出さない」と一礼を入れ事態は収拾した。
しかし、1939年白井は傍系の映画会社である新興キネマ(のち大映に合併。)に演芸部を新設し、「新興演芸」の名で演芸に再進出した。ミスワカナ・玉松一郎、あきれたぼーいず等の吉本芸人を引き抜き、道頓堀浪花座等で興行を行った。ライバル東宝が吉本と提携した事に対して行ったこの一件は演芸界を揺るがす大問題となった。吉本側は抗議したが、松竹自らが乗り出したわけではなく、結局裁判沙汰になるも二か月で和解。以降、吉本・新興で上方演芸界は二分されたが、新興キネマの合併消滅や戦時体制等で新興演芸は自然消滅の憂き目にあった。
終戦直後の1945年、吉本は所属する全芸人の借金を棒引きにした上で解雇を断行(ただし花菱アチャコのみは専属契約を継続)。演芸から撤退した。一方、五代目笑福亭松鶴等が落語会を催し、好評であるのを知った白井は、まず四つ橋文楽座で落語会を開催。好評であったため、1947年自ら経営する千日土地建物(通称・千土地。のちの日本ドリーム観光)の戎橋松竹で演芸に三たび進出した。このとき吉本は既に映画会社に転身していたが、この場合も千土地が表向き演芸興行を行い、松竹自らが進出することはなかった。なお、この戎橋松竹の支配人を務めていたのが、松竹芸能創業者の一人となる勝忠男である。
以降の経緯は、既述の通りであるが、吉本の演芸再進出は1959年であり、このとき既に松竹は道頓堀角座で演芸興行を本格的に行っていた。1960年代初頭は両社間での芸人の引き抜き・移籍は多かったが、やがて両社は所属芸人を引き抜かない協定を結んだ。このため、無理な引き抜きは行われなくなったが、在阪局制作のテレビ番組等で吉本と松竹の芸人は共演しないのが暗黙の了解である時代が1990年代後半まで続いた。
(1970年代後半のある正月に吉本所属の漫才師・横山やすしが松竹芸能系の演芸場である新世界新花月の楽屋へ遊びに行った際、泥酔していたやすしはそのまま新花月の舞台に上がってしまった。唖然とした観客はやすしに対し「吉本に怒られるぞ」とたしなめたという。大阪一厳しい客と言わしめた新花月の客にまで気を遣わせるほど、両社の関係は険悪だったのである。)
現在は両事務所所属の芸人が共演する機会も増え、過去の因縁は雪解けムードとなりつつあるようだ。特に、両者間の過去の関係において比較的影響力が少ないと思われる東京吉本が制作に関与する番組では、松竹所属のタレントがレギュラー・準レギュラー出演をするケースも少なからず見受けられる(「いきなり!黄金伝説。」のよゐこ・濱口や「ぐるぐるナインティナイン」のオセロなど。「いろもん貮・参」は鶴瓶と今田耕司・東野幸治の3人が司会進行で、エンドロールには企画協力に松竹と吉本の両社名が並んで表記されていた)。また、2002年には、吉本興業最大の寄席劇場なんばグランド花月にますだおかだと、アメリカザリガニが松竹芸能の所属芸人としては初めて吉本の通常公演の出演者として舞台に立った。吉本主催の若手漫才選手権イベントM-1グランプリでの活躍が認められての大抜擢であったが、当時はまだ吉本と松竹は犬猿の仲であるという印象が強く残っていたため、関西のスポーツ新聞に「歴史的事件」として取り上げられたほどであった。また、これに続いて吉本興業の木村明浩(バッファロー吾郎)が主催する大喜利イベント「ダイナマイト関西」の2006年オープントーナメントではM-1グランプリ同様に吉本以外の事務所所属の芸人や放送作家、フリーライター、そして一般参加者の参加が可能となり、予選大会は大阪のbaseよしもとや東京のルミネtheよしもとといった吉本系の演芸場だけでなく、松竹系のB1角座でも開催された。このB1角座予選にはもちろん主催者としてバッファロー吾郎も出演し角座の舞台を踏んでいる。当日はT.K.Oの木下隆行が勝利し、本戦トーナメント開幕戦へと進出した。結果的にバナナマンの日村勇紀に敗退したものの、木下は松竹所属の芸人としてなんばグランド花月の舞台を踏んだ。
[編集] 松竹DMC芸能
2006年4月8日、5月13日放送の「めちゃ²イケてるッ!」で、濱口だましシリーズとして、松竹芸能を買収した架空の映画配給会社「DMCブラザーズ」と合併し、「松竹DMC芸能」を会社を挙げて設立し(DMCとは、「だまし」からきている。もちろん本当に設立したわけではない)、安倍彰社長や難波規精東京支社長、所属の北野誠、中島知子、ますだおかだ、アメリカザリガニ、安田大サーカスら、会社を挙げて濱口優に架空の合併会社の未公開株を買わせて巨額の損失を背負わせるというだましにかかった。特に、北野は実際に株式にも詳しく、コンビ名「よゐこ」の名付け親でもあり、濱口自身が慕っている存在であったため、濱口は北野の言うことを信用しきっていた。
当初、濱口は300株購入していたが、500株買い増しした。放送ではカットされていたが株券を手にした際、 自身の持ちギャグである「獲ったど~!!」に掛け合わせ「買ったど~!!」と叫び、写メールを撮っている。
この間、東京支社が入居するビルのフロア案内の社名も「松竹DMC芸能(株)」とし、偽のホームページを作成、社員の名刺も「松竹DMC芸能」に書き換えるという徹底ぶりであった。
また、上場記念株主招待パーティには、宮崎駿のそっくりさんや鈴木宗男のそっくりさんの代役(※)、ニセビル・ゲイツ(82)、叶恭子、叶美香などが登場した。その際、所属芸人のネタがおもしろくなければ株価が即下落(例えば、ますだおかだの岡田がツッコミを入れた直後に株価が急落するグラフが画面に表示される、など)し、おもしろければ急上昇(どぜうモンが登場してからは株価がうなぎ上り)するという通常あり得ない演出を行った。
(※)坂田利夫が出演する予定であったが、急遽出演出来なくなったため、代わりに鈴木宗男本人が出演した。
さらに、パーティ会場で株の売買が出来るというのも普通ではあり得ない(会場でネットトレードできるというのはあり得るが、ブースを作るのは全くあり得ない)。
また、パフィーに見習い、「どぜうモン」の「キャラクター商品化」と「全米でのアニメ化」も提案された。因みに、「しゅくえ~る」は"Saving"(=救える)と翻訳するらしい。
この際、濱口は1000株相当の金の株券の無償譲渡を受けている(額縁に入っていること自体、金色の株券があること自体いずれもあり得ない)。この時点で1800株分を保有することになる。
その後、松竹DMC芸能の粉飾決算が発覚し、株価が急下落することになるが、松竹DMC芸能株を300株購入したHIROは先輩濱口の電話を無視してロケ弁を喰っているなどのんきなものであった。
因みに、粉飾決算発覚後の株価は、心電図のような表示で、音まで再現されていた。
本来、松竹芸能は上場企業ではないが、合併に伴い「松竹DMC芸能」としてNYSEに株式上場するという設定であった。
この架空合併会社の社長には、本物の社長である安倍彰氏が就任している(株券に記載された松竹DMC芸能の代表者名も「取締役社長 安倍彰」となっている)。