中島健蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年2月21日 - 1979年6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名。
心理学者中島泰蔵の長子(一人っ子)として東京市麹町区(東京都千代田区)に生まれる。父泰蔵はハーヴァード大学でウィリアム・ジェイムズに教えを受け、帰国後は東京専門学校(早稲田大学)で講師を務めた。
1909年、東京高等師範学校附属小学校(筑波大学附属小学校)入学。同級に市原豊太、菊池正士、坪井忠二。少年時代は自然科学に惹かれていたが、1914年、父宛に贈られた親類前田夕暮(泰蔵の姪を妻に持つ)の第三歌集『生くる日に』を読んで感銘を受け、短歌を創作して夕暮に送るも黙殺された。また、豆本「アカギ叢書」でイプセンやシェンキェヴィッチを読む。
1915年、東京高等師範学校附属中学校(筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。川田順や若山牧水、窪田空穂の短歌に心酔。小説家では国木田独歩、夏目漱石、森鴎外、有島武郎、芥川龍之介などに傾倒。
1919年、父を結核で亡くす。このころ、諸井三郎を中心とする音楽グループに接近。詩人菊池香一郎(こういちろう)の弟菊池武彦の影響で仏文学に関心を持つ。1920年、東京高等師範学校附属中学校卒業。1921年まで同校の補習科に通う。
第一高等学校理科甲類を二度受験して失敗し、1921年、旧制松本高等学校文科乙類入学。ドイツ語を第一外国語として学ぶクラスであることに飽き足らず、フランス人神父セスランのもとでフランス語の個人教授を受ける。
1925年、旧制松本高等学校文科乙類卒業。東京帝国大学文学部仏文科へ入学(無試験)。ボードレールを原語で読むことが仏文進学の目的だった。同期の11人に今日出海、小林秀雄、淀野隆三、平岡昇、田辺貞之助、三好達治など。当時助教授だった辰野隆に師事。
1928年、東京帝国大学文学部仏文科卒業。副手として研究室に残る。英文科教授の市河三喜から、フランス語の動詞choirの変化に関して質問を受けたが即答できなかったために侮りを受け、以来、市河とは犬猿の仲となる。
1933年秋、助手に昇格。このころから評論の執筆を始め、「作品」「文学界」の同人となる。1934年、辰野隆や鈴木信太郎の世話で臨時講師となる。「教授になれると思うなよ」と初めから念を押されていたが、その代わり学外では好き勝手にやらせてもらうことを約束させ、学内でも大学の予算でフランスの稀覯書を購入して自分のコレクションに加えるなどの自由を満喫した。
1935年1月24日、東大仏文の研究室にて太宰治と檀一雄の訪問を受ける(紹介者は井伏鱒二)。そのころ太宰は仏文在学5年目にして取得単位ゼロ、檀は経済学部在学3年目にして取得単位7。二人の目的は、卒業試験を受けるのに必要な単位を泣き落としで手に入れることにあったが、中島に用件を切り出せぬまま酒場で酒を振舞われているうちに卒業などどうでもよくなったという(檀一雄『小説太宰治』および中島健蔵『回想の文学』第2巻『物情騒然の巻』pp.110-113による)。
1942年、陸軍に徴用されたためマライ派遣軍の一員として出征。年末に帰国。
1945年、日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)。
1946年、日本著作家組合創設。書記長となる。同年、野上彰の「火の会」に参加。第二次世界大戦に協力した文化人を指弾。
1951年から1952年にかけて、伊藤整のチャタレイ裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護。
1954年、著作権保護への貢献によって菊池寛賞受賞。1955年、新日本文学会幹事会議長(~1961年)。1956年、日中文化交流協会に参加。1959年、安保批判の会に参加。
1960年、東大仏文大学院講師となる。1962年、東大を辞職。
1982年、京子未亡人が私財を提供して中島健蔵音楽賞を創設。
[編集] 切手コレクターとして
切手コレクターとしては、清朝国家郵政初期から中華人民共和国建国まで幅広く中国切手全般を収集し、日本関連においても明治中期の消印である「丸一型印」の研究の先駆けを努める。1966年からは日本郵趣協会の会長を歴任し、郵趣の普及と発展に大きく貢献した。その功績をたたえ、中島健蔵賞(現:中島健蔵・水原明窗賞)が創設された。