ハプニング解散
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ハプニング解散(─かいさん)は、1980年5月19日の衆議院解散の通称。
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[編集] 概説
1980年5月16日の本会議において、日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など、一連の自民党のスキャンダルに対する大平内閣不信任決議案を提出した。野党・社公民の三党は党首会談を行い、当然のごとく自民党議員全員が反対否決すると思い込んでいた社会党の飛鳥田委員長と公明党の竹入義勝委員長は、不信任案提出で合意したが、民社党の佐々木良作委員長は、民社党顧問だった春日一幸の「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」との分析を受け、提出に難色を示した。この意見は受け流される格好となり、結果、前年の四十日抗争で大角主流派に敗れた反主流派であった三木派や福田派、中川グル-プの反主流派69人が本会議を欠席したため、賛成243票・反対187票で大平内閣不信任決議案は可決してしまった(中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。また大平派福永健司、小坂善太郎が病気入院のため欠席したが小坂に対して一部の声で親三木(三木内閣の外相を歴任)だったことから欠席したのではないかと言われている)。
5月19日、大平内閣は閣議で衆議院解散を決定した。本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を灘尾弘吉衆議院議長が朗読して衆議院解散となった。
そして、6月22日の参院選と同時に衆院選の投票を実施することを決定し、史上初の衆参同日選挙となった。
野党は不信任案が可決されることを予測しておらず、反主流派も戦略なく行き当たりで欠席したため、「ハプニング解散」と呼ばれる。
大平執行部は、不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と、反主流派で不信任案を否決に出席した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員を第2次公認という形を取った。
当初は分裂選挙の様相を呈していたが、6月12日に大平首相が急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は融和、一転して団結し選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に社会党は大敗を喫した。これは自民党に多くの同情票が集まったと言われることが多いが、一方で石川真澄などは、四十日抗争、ハプニング解散、そして現職首相の総選挙中の死という異常な出来事が1年の間に次々と起きたことが、有権者の政治への興味関心を高め、投票所に向かわせたことが勝因であるとの見解を示している。
なお、余りの突然の解散だったため、NHKのニュース速報では非常事態にしか流さない通常時と違うチャイム(サイマル放送のチャイム)をテレビで流した。このチャイムは大地震の他、天皇陛下の崩御など国を動かすような非常時にしか流されないため、この解散がいかに予想外の出来事であったか分かる。
[編集] 内閣不信任案に造反欠席した反主流派議員
[編集] 中曽根派(中曽根らは、出席・不信任案に反対した。)
[編集] 福田派
- 渡海元三郎、始関伊平、久保田円次、安倍晋太郎、三ッ林弥太郎、
- 塩川正十郎、福家俊一、加藤六月、田辺国男、村田敬次郎、
- 森喜朗、山崎平八郎、国場昌幸、三塚博、中島源太郎、
- 越智通雄、小泉純一郎、松本十郎、村上茂利、鹿野道彦、
- 石橋一弥、大塚雄司、佐藤隆、佐野嘉吉、田名部匡省、
- 狩野明男、中村正三郎、亀井静香、吹田愰、宮下創平
[編集] 三木派
[編集] 中川派
- 上草義輝、高橋辰夫
- (出席2人)長谷川四郎、中村弘海