衆議院解散
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衆議院解散(しゅうぎいんかいさん)とは、任期満了前に衆議院議員全員の地位を失わせることをいう。
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[編集] 日本国憲法下における衆議院解散
[編集] 解散権限の帰属
日本国憲法において衆議院解散について規定した条文としては、7条と69条がある(※1)。衆議院解散は7条3号により天皇の国事行為とされているため、形式的には天皇が衆議院解散を行うが、誰が衆議院解散に関する実質的な決定権限を持つかについては第7条にも第69条にも明確に規定されているわけではない。もっとも、根拠をどこに求めるかについては争いがあるものの、憲法学者・先例ともに内閣(※2)に衆議院解散の実質的な決定権限があることで見解が固まっている。
これに対し、衆議院による自主解散権を認める見解も存在するが、議院の多数決により少数派の議員の地位を失わせることを可能とするためには憲法上明文の根拠が必要であるとして、ほとんど採用されていない。1952年7月31日と1959年12月26日に、衆議院解散に関する決議案を衆議院本会議に提出されたことがあるが、いずれも否決されている。それ以外に、衆議院解散に関する決議案は提出されたことがないが、可決されても法的拘束力のない国会決議と同じとされる。
- ※1 このことから、衆議院解散には7条解散と69条解散があるという説明がされることがある。しかし、69条所定の事由により解散する場合であっても、7条により天皇の国事行為の対象となることから、分類としては正確性を欠く。
- ※2 内閣総理大臣の意向により解散させることが多いが、憲法上の解釈としては、実質的な権限はあくまでも内閣に帰属するのであり、内閣総理大臣ではないことに注意を要する。ただし、内閣総理大臣は、衆議院の解散に反対する閣僚を全て罷免して自分が兼任すれば、最終的に自分の意志で衆議院を解散することが可能であるから、実質的な権限が内閣総理大臣にあるとしても誤りとは言えない。
[編集] 内閣に実質的権限が帰属する根拠
以上のように、衆議院解散の実質的な権限を持つのは内閣とする見解にほぼ固まっているが、その根拠については以下のとおり見解が分かれている。もっとも、行政説と69条説はほとんど支持されておらず、7条説と制度説が対立しているのが実情である。
- 7条説
- 日本国憲法7条に規定する「内閣の助言と承認」に実質的権限の帰属の根拠を求める見解。国事行為とされている事項の実質的権限の帰属が憲法上明確でないものについては、国事行為に対する内閣の「助言と承認」を根拠として内閣に実質的な権限があるとする考え方を前提とする。
- 制度説
- 日本国憲法は議院内閣制を採用しているところ、議院内閣制においては内閣に議会の解散権を認めるのが通例であることに根拠を求める見解
- 行政説(65条説)
- 行政の定義を「国家の権能のうち立法と司法を除いた残余の権能」とする考え方(控除説)を基に、衆議院解散権は立法でも司法でもないから行政に属し、日本国憲法65条により内閣に帰属するとする見解
- 69条説
- 日本国憲法69条は衆議院による内閣不信任決議の効果について定めているところ、同条中の「衆議院が解散されない限り」という文言は、不信任決議に対する内閣の対抗手段としての解散を認めたとする見解
[編集] 69条所定の場合に限定されるか
日本国憲法第69条の解釈上、衆議院で内閣不信任決議案が可決されるか信任決議案が否決された場合に、内閣はそれに対抗する手段として衆議院解散が可能であることは、問題はない。しかし、それ以外の場合に衆議院解散が認められるかについては、過去に争いが存在した(なお、前述の69条説は、解散権の帰属の根拠を69条に求めるため、解散は69条所定の場合に限定されることになる)。
この点、GHQ施政下にあった1948年に衆議院を解散する際、当時の第2次吉田内閣は69条所定の場合に限定されないという見解を採っていたのに対し、野党は69条所定の場合に限定されるという見解を採り、対立していた。そのような中で、憲法草案に携わっていたGHQは衆議院解散を69条所定の場合に限定する解釈を採ることが伝えられ、協議の上、野党が内閣不信任案を提出して形式的にそれを衆議院で可決し、69条所定の事由により解散する方法を採った(馴れ合い解散)。この時の解散詔書には、以上のような見解の対立の妥協の産物として、「衆議院において、内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載された。
これに対し、1952年に第2回の解散をしたときは、69条所定の場合ではなかった。このため、解散当時の衆議院議員が、歳費請求訴訟の中で解散の無効を主張したところ、その上告審において最高裁判所は、いわゆる統治行為論を採用し、高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられるとして、違憲審査をせずに上告を棄却した(いわゆる苫米地事件判決)。この第2回解散の際の詔書には「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」とあり、以後は、内閣不信任決議案が可決された場合であるか否かにかかわらず、この方式によることが確立している。
このように過去には争いはあったものの、解散を69条所定の場合に限定する見解は現在ではほとんど見られない。もっとも、内閣に自由な解散権があるとしても、総選挙を通して民意を問う制度である以上、それに相応しい理由がなければならないと理解されており、国会法74条に基づく内閣に対する質問に対し、内閣から国会に提出された答弁書では、新たに民意を問うことの要否を考慮して、内閣がその政治的責任において決すべきものとの認識が示されている。
なお、1993年6月18日宮沢内閣「嘘つき解散」は、内閣不信任案の可決による解散であったが、議長が慣例通り「日本国憲法第七条により衆議院を解散する。」との詔書(後述「手続等」を参照)を読み上げたため、野党席からは「69条の解散ではないのか」との抗議の怒声が起こり、万歳三唱がなかなか行われず、遅れて与党席から「万歳」の声があがるというハプニングもあった。
[編集] 手続等
衆議院解散の権限は内閣に属するので、内閣総理大臣は閣議を開いて閣内意思をまとめ、衆議院の解散に関する閣議書に全ての国務大臣の署名を集めなければならない。国務大臣が署名を拒否した場合は、該当大臣を罷免し、首相自身が兼任するか他の大臣に兼任させることで閣議書を完成させる。極端に言えば、首相一人が他の全大臣を兼務して閣議書を完成させることも可能である(具体的には2005年に小泉純一郎首相が、署名を拒否した島村宜伸農水相を罷免したのが唯一の例である)。衆議院の解散は天皇の国事行為であるため、閣議書が完成すると、内閣官房の内閣総務官が皇居に赴いて上奏し、天皇から詔書に御名御璽を受ける。
詔書が発せられると、直ちに衆議院本会議が開かれる。衆議院本会議開会中に詔書が発せられることもある。議長席後方の扉から内閣官房長官が「紫の袱紗(ふくさ)」に包まれた詔書の写しおよび内閣総理大臣からの伝達書を持って入場し、衆議院事務総長が中身を確認、衆議院議長に渡す。議長は「ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから朗読いたします。」と発言。その後、議長と全議員が起立、議長が「日本国憲法第七条(の規定)により、衆議院を解散する」と詔書の文章を読み上げて衆議院の解散を宣言する。また、詔書が朗読された直後、衆議院議員が万歳三唱することが慣例となっている。ただし、本会議を開かないで解散を宣言したことが数度あり、この時は院内の議長応接室に各会派の代表を集め、詔書を衆議院議長が朗読した。議長は、一呼吸置いた後、無言のまま議場を後にする。通常ならば、「この際、暫時休憩いたします。」あるいは、「本日はこれにて散会いたします。」と宣言するところだが、解散と同時に議長も失職する建前なので、それらを宣言する資格がなくなると解されているからである。ちなみに解散後議場から出る「前」議員たちに対しては衛視が敬礼をしなくなる。
なお、議長が詔書を朗読する際、「第七条」を「だいしちじょう」ではなく、「だいななじょう」と発音することが慣例となっており、これは「一」や「四」と聞き間違えることを防ぐためである。また、解散詔書が読み上げられて衆議院議員が万歳三唱を行う際には、議員以外の職員・記者・一般傍聴人は議場の秩序維持のためにこれに呼応した万歳及び喚声を上げてはならないとされており、解散が決定すると、あらかじめ傍聴席などに衛視を配備して警備を強化すると言われている。
衆議院の解散は全ての動議に優先されるため、仮にこのとき内閣不信任決議案が提出されていたとしても、解散詔書が提出された時点で衆議院解散が成立する。また、審議中の法案は、解散と同時にすべて廃案となる。また、衆議院が解散されると、参議院は自動的に閉会となる。参議院の本会議が休憩中に衆議院が解散となり、再開されなかったこともある。
衆議院解散による衆議院議員の総選挙は、解散の日から40日以内に行わなければならない(日本国憲法第54条1項、公職選挙法31条3項)。
[編集] 解散詔書
大日本帝国憲法下の解散詔書は「朕帝国憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と表現されていたが、日本国憲法下では「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する」と口語文の平仮名書きに改められた。後者の詔書には「朕」(天皇の一人称)=主語が明記されておらず、議長の読み上げ文だけを聞く限り、素人目には誰が解散するのかわからない。詔書全体ではこの後に御名御璽があるため主語が天皇であることは明白であり、日本国憲法第7条の趣旨と合致する。
これは、日本国憲法においても天皇が元首であるとする勢力とそうでないとする勢力のせめぎ合いの中で、妥協の産物として成立した文面である。
衆議院の解散に関するテレビ報道等では、国務大臣が解散詔書に署名したなどと報じられることがあるが、これは明らかに誤りである。国務大臣が署名する対象は、天皇の国事行為(衆議院の解散)に関する閣議決定書であり、解散詔書に署名(副署)するのは、天皇および内閣総理大臣のみである。 また、解散詔書の正本は内閣官房で保管される。衆議院議長が本会議場で読み上げるものは、詔書そのものではなく、詔書の「写し」(天皇の署名・押璽の部分が「御名御璽」と書き換えられている)である。詔書の「写し」は、衆議院議長の宛名が書かれた白色の封筒に、内閣総理大臣からの伝達書と共に収められる。
[編集] 第七条の成立
前述の通り、大日本帝国憲法下、日本国憲法下いずれも、詔書上の解散の根拠規定は「第七条」とされている。これは偶然ではない。
そもそも日本国憲法の制定過程において、そのたたき台となったGHQ草案(いわゆる「マッカーサー草案」)では、衆議院の解散を含む天皇の国事行為を列挙した条項は第六条であった。その後の修正作業の中で、GHQ草案の第三条が二つに分割され、日本国憲法「第三条」と「第四条」となった。その結果、GHQ草案の第四条以降が一条ずつ繰り上がり、国事行為を規定した第六条が、日本国憲法の「第七条」となった。
これは、戦前の天皇制と戦後の天皇制との継続性を重視する勢力が、「第七条」=天皇による「解散」にこだわった結果であり、GHQも実質的な内容変更ではなかったので黙認したものと見られる。
[編集] 政局など
衆議院の解散は、事実上の解散権限を持っている首相の伝家の宝刀と呼ばれる。
内閣・与党の支持率および選挙の勝算を考慮した結果として、国会が開かれていない時期に衆議院が解散されることが適切だと政治的に判断される場合には、臨時国会を召集し、その冒頭で衆議院を解散する(召集時解散)。なお、過去に例はないが、閉会中でも衆議院の解散は可能とされている(衆議院憲法委員会1946年7月20日)。
衆議院の解散が起こりそうな政局を、しばしば「解散風が吹く」と表現することがある。
以下のとおり、衆議院の解散にはそれぞれ呼称が存在する。しかし、幾つかの解散には、一つの呼称だけでは世間に浸透しないものもあり、複数の呼称が存在することもある。
解散の年月日 | 解散時の内閣 | 主な通称 | 備考 |
---|---|---|---|
1948年12月23日 | 第2次吉田内閣 | 馴れ合い解散 | 内閣不信任案の可決 |
1952年8月28日 | 第3次吉田内閣 | 抜き打ち解散 | 議長応接室での解散 |
1953年3月14日 | 第4次吉田内閣 | バカヤロー解散 | 内閣不信任案の可決 |
1955年1月24日 | 第1次鳩山内閣 | 天の声解散 | |
1958年4月25日 | 第1次岸内閣 | 話し合い解散 | |
1960年10月24日 | 第1次池田内閣 | 安保解散 | |
1963年10月23日 | 第2次池田内閣 | ムード解散、所得倍増解散、予告解散 | |
1966年12月27日 | 第1次佐藤内閣 | 黒い霧解散 | 召集時解散 |
1969年12月2日 | 第2次佐藤内閣 | 沖縄解散 | |
1972年11月13日 | 第1次田中内閣 | 日中解散 | |
(1976年12月5日)1 | 三木内閣 | ロッキード選挙 | 衆議院議員の任期満了 |
1979年9月7日 | 第1次大平内閣 | 増税解散、一般消費税解散 | |
1980年5月19日 | 第2次大平内閣 | ハプニング解散 | 内閣不信任案の可決 議長応接室での解散 |
1983年11月28日 | 第1次中曽根内閣 | 田中判決解散 | |
1986年6月2日 | 第2次中曽根内閣 | 死んだふり解散、寝たふり解散 | 召集時解散 議長応接室での解散 |
1990年1月24日 | 第1次海部内閣 | 消費税解散 | 施政方針演説なしでの解散 |
1993年6月18日 | 宮沢内閣 | 嘘つき解散、政治改革解散 | 内閣不信任案の可決 |
1996年9月27日 | 第1次橋本内閣 | 小選挙区解散、名前なし解散 | 召集時解散 |
2000年6月2日 | 第1次森内閣 | 神の国解散、ミレニアム解散 | |
2003年10月10日 | 第1次小泉内閣 | マニフェスト解散、構造改革解散 | |
2005年8月8日 | 第2次小泉内閣 | 郵政解散 | 参議院での郵政民営化法案否決 |
1… 任期満了によるものであり衆議院解散ではないが、ロッキード解散と呼ばれることもあるので、便宜上入れておく。なお、前回の総選挙の当選議員の任期は1976年12月9日までであり、この選挙の当選議員の任期は12月10日からである。
[編集] 大日本帝国憲法下における衆議院解散
大日本帝国憲法においては、衆議院解散は天皇の大権に属し(第7条)、国務大臣の輔弼に基づき(第55条1項)権限を行使した。このため解散を現実的に決定したのは内閣であった。
解散の手続は、帝国議会時代に先例として完成し、日本国憲法下にもほぼ踏襲されている。だだ、解散詔書の文面は前述のように「朕帝国憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と主語が明確に書かれ、天皇が主体的に解散を行っているという形式を採っている。
衆議院が予算の先議権を有することは、大日本帝国憲法でも規定されていた。そのため、初期議会において、政党は憲法の運用を通じて政治的影響力を増大させ、憲法発布当初は超然主義をとっていた藩閥政府と激しく対立した。藩閥政府はこうした政党の攻勢に対抗するため、衆議院を解散した。最初の衆議院解散は松方正義首相によって、1891年12月15日に行われた。さらに、任期満了または先の解散から1年以内にふたたび衆議院を解散することもしばしば行われた。
1897年12月25日の第11回帝国議会の解散から、国会で議員が万歳三唱をするようになった。どうして「万歳三唱」を行うのかは不明だが、元内閣総理大臣の中曽根康弘によると、「大日本帝国憲法下では、『解散の詔書』が包まれる紫のふくさに象徴される天皇陛下万歳というのが始まり」とし、「職を失った者が総選挙という戦場に万歳・突撃するという気持ちだ。」としている。
加藤高明内閣以降には、元老が内閣総理大臣を奏薦する際に憲政の常道が重視されるようになり、衆議院第一党の内閣が倒れた際には衆議院第二党の党首が奏薦されるようになった。衆議院第二党の党首が政権を担当した場合には、内閣の基盤を強化する目的で早期に衆議院を解散することが多かった。
その後、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてからは、内閣総理大臣は軍人など政党の党首以外から奏薦されるようになった。陸軍出身の林銑十郎内閣において最初の予算が成立した直後、1937年3月31日に行われた解散には、重要法案の阻止を図ったという理由以外には特に理由がなく、政党からは「食い逃げ解散」と呼ばれて批判された。この解散は政党勢力を弱体化させるために行われたといわれているが、各政党が議席を伸ばす結果となり、林内閣は5月31日に総辞職した。
太平洋戦争後の1945年12月18日に行われた解散はGHQの幣原喜重郎内閣への指令によるものであり、終戦解散またはGHQ解散と呼ばれた。この解散を受け、当初翌年1月に行われるはずだった総選挙は3ヶ月延期され、立候補予定者の資格審査(軍国主義者の排除)の後、1946年4月10日に実施された。
大日本帝国憲法下での最後の解散は第一次吉田茂内閣において1947年4月5日に行われ、新憲法解散または第2次GHQ解散と呼ばれた。この解散も、GHQの指令に基づくものであった。
解散の年月日 | 解散時の内閣 | 主な通称 | 備考 |
1891年12月25日 | 第1次松方内閣 | ||
1893年12月30日 | 第2次伊藤内閣 | ||
1894年6月2日 | 第2次伊藤内閣 | ||
1897年12月25日 | 第2次松方内閣 | ||
1898年6月10日 | 第3次伊藤内閣 | ||
1902年12月28日 | 第1次桂内閣 | ||
1903年12月11日 | 第1次桂内閣 | ||
1914年12月25日 | 第2次大隈内閣 | ||
1917年1月25日 | 寺内内閣 | ||
1920年2月26日 | 原内閣 | ||
1924年1月31日 | 清浦内閣 | ||
1928年1月21日 | 田中内閣 | ||
1930年1月21日 | 浜口内閣 | ||
1932年1月21日 | 犬養内閣 | ||
1936年1月21日 | 岡田内閣 | ||
1937年3月21日 | 林内閣 | 食い逃げ解散 | |
1945年12月18日 | 幣原内閣 | 終戦解散、GHQ解散 | GHQの指令 |
1947年3月31日 | 第1次吉田内閣 | 新憲法解散、第二次GHQ解散 | GHQの指令 |