自由革新同友会
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自由革新同友会(じゆうかくしんどうゆうかい)とは、かつて自由民主党内に存在した政策集団。代表は中川一郎(後に石原慎太郎)で、通称中川派→石原派。
青嵐会が自然消滅の形となっていた1979年、旧水田派出身の中川が、無派閥の石原慎太郎や長老格の長谷川四郎(旧椎名派)、長谷川峻(旧石井派)らと結成。いわゆる中間派の結集を目指したものの、実質的な中川派議員は10名にも満たず、福田派や中曽根派の若手が重複して参加するなど混成派閥の様相を呈していた。派閥行動としては福田赳夫の親衛隊として、40日抗争、ハプニング解散も福田派と共同歩調をとり反主流を歩む。このため、途中で中川派内の中曽根派議員が離脱するなど、二重在籍者を抱える派閥の脆さも見せる。
1982年、中川が鈴木善幸の後継にいち早く名乗りをあげ総裁選に出馬。66,041票を得るものの最下位に終わった。直後成立した第1次中曽根内閣では長谷川峻が入閣して派閥としての面目は保つが、長谷川の入閣は中川の意向とは異なるものであったという。
1983年1月に中川が急死すると取り敢えずは長谷川四郎が代表代行を務め、その後石原が後を継ぐ(石原派)が、求心力の低下は避けられず、他派閥の草刈場となってしまった。一時は中川直系だけでも14人を数えたが、少なからざる部分が総裁派閥として勢力拡大を図っていた中曽根派に移籍するなど解散直前には衆参合わせて7人にまで落ち込んだ。小世帯では内閣・党の主要ポストも獲得できず、派の運営費だけが嵩む一方で、ついに1984年11月、石原をはじめ長谷川四郎、長谷川峻、高橋辰夫、平沼赳夫、中川昭一の衆院議員6人は福田派に合流し、中川派は消滅することになった。
なお、中川の死後、中川派議員と中川の秘書・鈴木宗男との間で、派閥の運営資金に関する問題で訴訟沙汰となった。