ハイデラバード
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ハイデラバード (Hyderabad(u), حیدر آباد, హైదరాబాదు हैदराबाद, ハイダラーバードと表す方がより現地音に近いらしい) は、インド中南部アーンドラ・プラデーシュ州の州都。近接する双子都市セカンダラバード(インド陸軍、空軍の一大駐屯地)をあわせた州都領域は、259km²にわたって拡がっている。両都市は、フセイン・サーガル(湖)をはさんで隣り合わせるように位置する。また、ハイデラバードはムシ川によって、オールドシティーと呼ばれる南部(総じてムスリムの住民が多く、定時にはコーランも聞こえてくるムスリム文化が色濃く残る地域。チャール・ミナールやマッカ・マスジドなどといった歴史的建造物も多い)と比較的モダンな北部(特にフセイン・サーガル北東岸の開発はめざましい)に大まかに分ける事ができる。
近年は、ITビジネスが牽引する経済発展が著しい。これに伴って、インド国外からの文化流入も多見されるようになってきた。セカンダラバード駅前のケンタッキー・フライドチキンをはじめ、ハイデラバード市内にはモダンなショッピング・コンプレックス、マクドナルド、サブウェイ、ドミノピザ、ピザハット、中華料理レストランも見られるようになってきた。しかし、都市発展過程での必然的な問題である公害(特に水質汚染)、騒音、反体制活動(ナクサライト)もまた問題になってきている。道路は比較的よく整備されているが、陽気な運転マナーの悪さもあって、特に出勤退社時間帯の市内の渋滞は凄まじいものがある。2006年、この渋滞緩和のために市内主要道路の拡幅、高架道路の建設が行われている。発展著しいこの町の景観は、大きく変わりつつある。
ハイデラバード市内には、歴史を誇るオスマーニヤー大学(OU)が、郊外にはハイデラバード大学(UoH)、Acharya N G Ranga 農科大学(ANGRAU)、インド商科大学があり、非常に高い水準の教育機関として機能している。また、メダック県との県境には国際半乾燥熱帯作物研究所(ICRISAT)があり国際的規模で食糧問題に取り組んでいる。
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[編集] 地理・気候
ハイデラバードは、かつてハイデラバード州を形成していたテランガラ地域の地理的中心であるが、アーンドラ・プラデーシュ州の地理的中心地ではない。年間平均降水量は、700mm-1000mm程度で、降雨パターンにより7-9月の雨季と10-6月の乾季に明瞭に区分できる。デカン高原の最頂部で海抜は約536mあるが、年平均気温は26℃と一年を通じてかなり高い。特に乾季後半の4-6月は、日中40℃を越える日が多く、熱射病や熱中症で多くの死者が出ることもある。
[編集] 歴史
ハイデラバードの歴史は500年に満たず、インドでは比較的歴史の浅い都市に属する。
歴史上には、ハイデラバード近郊北西部に位置するゴルコンダが、まず登場する。カーカティヤ朝期に名をはせたガナパティ王は、ゴルコンダの岩山に、初めて砦を建設させた。カーカティヤ朝とは、カリヤーニのチャールキヤ朝から独立した王朝である。カーカティヤ王位を引き継いだルドラーンバ女王の統治期には、マルコポーロがカーカティヤ朝の都に立ち寄り、その繁栄に感銘を受けたと伝えられている。その後プラターパルドラ2世(1295年-1325年)が没してから、カーカティヤ朝はハルジー朝やトゥグルク朝の力に屈していった。
[編集] クトゥブ・シャーヒー王国(1518年-1687年)
その後200年にもわたりデカン高原一帯を支配したバフマニー朝、その13代目の王ムハンマド・シャー3世の統治期(1463年)に、テランガラ地方で問題が発生したためスルターン・クリー・クトゥブル・ムルクが同地方の総督として派遣された。スルターン・クリー・クトゥブル・ムルクは、続くムハンマド・シャー4世からも幾つかの称号を授けられ、バフマニー朝の宰相となった。1518年、彼は独立を宣言してクトゥブ・シャーヒー王国をうちたてた。そして、王国の首都をゴルコンダに定め、カーカティヤ朝期の古ぼけた泥の砦を強固な石のゴルコンダ要塞都市として再造営した。彼の後継者もその事業を受け継ぎ、数多くの強固な増築がなされた。クトゥブ・シャーヒー王国の統治期は、アーンドラ・プラデーシュ州における建築および芸術の黄金時代であった。歴代クトゥブ・シャーの王たちは偉大な建築家であり、また建設をこよなく愛していた。彼らの統治期に、数え切れない宮殿や邸宅(後のムガル帝国遠征軍により徹底的に破壊され、灰燼と帰したが)、壮麗なモスク、そして数えきれないほどの湖や溜池が造営された。また王国中葉の王は、アーンドラ・プラデーシュ州の在来言語であるテルグー語を保護し、教養階級の公用語であったアラビア語、ペルシア語、およびウルドゥー語と同様に奨励したことでも知られる。
1589年、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー(5代目の王)は、ハイデラバードの南を流れるムシ川周辺が豊かな緑に覆われた土地であることに目をつけ、そこをクトゥーブ・シャーヒー王国の王都に定めた。有名な言い伝えによると、そこにはチチェラムという村が存在したが(チャール・ミナールがあるあたり)、彼はこの新しい王都の名を、愛してやまなかった美しい踊り子であるバーグマティーにちなんで、バーグナガルと命名した。王からのこの贈り物に驚いた彼女は、ムスリムに改宗して、自身の名をハイダル・マハルという以前と全く異なるムスリム名に改めた。しかし、王はめげることなく王都の名をハイデラバード(すなわち「ハイダルの町」)と改めてしまった。1611年に王が没すると、甥のスルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャーが王座を引き継いだ。1626年にこの王が没すると、クトゥブ・シャーヒー王国は徐々に衰退へと向っていくが、滅亡までにはさらに60年の歳月を要し、二人の王-アブドゥル・クトゥブ・シャー(在位1626年-1672年。スルタン・ムハンマドの息子)、およびアブル・ハサン・ターナー・シャー(在位1672年-1687年。アブドゥルの娘婿であり、そしてクトゥブ・シャーヒー王国初代の従兄弟ファシー・カーンの曾孫)がこの王国の末期を飾った。
ムガル帝国の版図拡大政策により、1687年クトゥブ・シャーヒー王国はアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃をうけた。クトゥブ・シャーヒー王国軍は、難攻不落のゴルコンダ要塞に篭城して、長期にわたる包囲攻城戦をよく持ちこたえていた。しかし、アフガニスタン戦士アブドゥッラー・カーンの裏切りにより戦局は一転。彼は遠征軍に内通し、同年(1687年)9月21日早朝に、守備兵員が手薄となっていたキールキー城門から、密かにムガル帝国軍を迎え入れた。クトゥブ・シャーヒー王国守備軍は、完全に無防備を襲われ、防御線を瞬く間に破られてしまう。かくしてゴルコンダ要塞は、この年ついにアウラングゼーブ帝遠征軍のまえに陥落する。これは、同時にクトゥブ・シャーヒー王国の崩壊でもあった。
[編集] ムガル帝国統治(1687年-1723年)-ニザーム藩王国(1724年-1948年)
クトゥブ・シャーヒー王国滅亡から37年間、ゴルコンダは広大なムガル帝国領の一県として命脈を保っていた。その頃、ムガル帝国の有能な将軍ミール・カマルッディーンは、帝国に見切りをつけて1724年に彼の軍隊を率いて旧所領であるデカン高原へ旅立ち、ハイデラバードに拠ってニザーム1世として独立を宣言した。ニザーム藩王国(ハイデラバード藩王国)の統治領域は、現在のアーンドラ・プラデーシュ州域にほぼ相当する。ニザーム藩王国の統治期に、ハイデラバードは、大いに近代化された。電力、鉄道、航空路の整備、巨大な貯水池建設を含む幾つもの灌漑プロジェクト、そしてオスマーニヤー大学をはじめとする高等教育機関が創立された。歴代のニザーム家当主は偉大な建設家であり、モザームジャーヒィー・マーケット、オスマーニヤー市民病院、ハイデラバード・ハイ・コート、ハイデラバード州立中央図書館、ハイデラバード州議会議事堂、ジュブリーホール、パブリックガーデン等の公共施設は、彼らにより建設された。
かつてのクトゥブ・シャーヒー王国は、西洋人の入植地やその勢力圏拡大を厳しく制限していた。一方、同王朝を滅亡させて、インド亜大陸に覇権を確立したムガル帝国は、新興勢力であるマラータ族鎮圧に忙殺されてしまった。この機にヨーロッパ勢力は、徐々に治外法権のある広大な入植地を奪取し、勢力圏や権限を強化し始めた。ニザーム家の統治時代には、フランスとイギリスがインド亜大陸内に強大な勢力を確立し始め、ニザーム藩王国へもニザーム1世が没すると同時に干渉し始めた。彼の逝去後、跡目相続をめぐる混乱を制したのは、6人いた彼の息子の三男、サラーバト・ジャングであった。この係争中、フランス全権代表であるブッシー将軍は、サラーバトを支持した見返りとして、広大な領地を手に入れることに成功した。しかしその後ブッシー将軍は、ポンディシェリー駐在中の1756年に、ロバート・クライブ率いるイギリス軍と戦火を交えて敗北し、イギリスに主導権を奪われてしまう。この戦いの後、イギリスはマドラス行政管区の勢力圏を、現在のアーンドラ・プラデーシュ州領域にまで拡大することに成功した。ニザーム家は、その後も藩王国内での独自通貨の鋳造権、立法権、そして臣下の裁判権を有していたが、その地位は徐々にイギリスの陪臣へと落ちていった。
1947年の印パ分離独立後、多くの藩王国はインド政府に併合され、ニザーム藩王国もインド政府かパキスタン政府のいずれかへの帰属をせまられた。ムスリムであるニザーム家は、ヒンドゥー教徒主導のインド政府に参加する事には否定的であったため、現状維持とする暫定協定を結ぶ。しかし、インド亜大陸中央部に広大な藩王国領を持つニザーム家が、パキスタンの飛び地として独立してしまうことをインド政府は極度に警戒していた。1948年にインド政府は、経済封鎖によりニザーム家を追いつめ、同年(1948年)9月19日にインド政府軍をハイデラバードに派遣した。ニザーム家当主ミール・オスマーン・アリー・カーン(アサフ・ジャー7世)は成すすべなく降伏、かくしてインド亜大陸最大、そして最後の藩王国はハイデラバード州としてインド政府に強制併合された。当初、ハイデラバード州はマドラス州の一部であったが、1953年に新州境の確定時にテルグー語圏であるとしてマドラス州から切り離された。このハイデラバード州は、後に形および広さに多少変化があったものの、インド政府初の言語圏基準による州境線を持つアーンドラ・プラデーシュ州として、州政府の権限を与えられた。
[編集] 人口構成
人口は、約550万人でインド第五の巨大都市である。陽気に自己中心的な人々、というのが一般的なハイデラバーディーのようである。ドラヴィダ人の住民が主体で、話者人口はテルグー語が最も多く、ウルドゥー語、ヒンディー語となっている。
今なおムスリム文化の影響が、この都市のいたる所に色濃く残っている。最近は、他州からの流入人口も多くなっている。
[編集] 交通
ハイデラバード(ナンパリー)駅はインド南中央鉄道管区で、インド全土の鉄道主要駅と連絡している(インド鉄道HP。時刻表などあり)。ムンバイーから735km、チェンナイから680km、コルカタから1588km、そしてデリーから1679kmの位置にある。州外主要都市への鉄道乗り継ぎは、隣接する双子都市セカンダラバード駅からの方が便利である。
よく整備された2つの国道(7号線、9号線)が、この都市を貫いている。国道7号線を通じて南の大都市バンガロールそして北のマハーラーシュトラ州へ、国道9号線を通じてプネー、さらに北西の大都市ムンバイーへ、旅客、物資の移動が活発である。市内のフセイン・サーガル湖北部に位置するジュブリー・バスステーションは、インド各都市への長距離バスの発着点で、ここから大抵の都市に旅することができる。 市内の移動には、市バス、オートリクシャーが市民の主要な移動手段として利用されている。デリーと異なり排気ガス規制が皆無のため、これらの交通手段は安価なディーゼルエンジンを動力としており、交通の激しい市内の空気は排気ガスまみれで殺人的ですらある。
フセイン・サーガル湖北部のベーガムパトには、ハイデラバード市内の人口過密地域であるにもかかわらず24時間発着の国内(ハイデラバード空港)・国際線(ラージーヴ・ガーンディー国際空港)空港がある(IATAコード: HYD)。インド国内の主要都市への空路連絡は良好である。現在、ハイデラバード郊外に2008年開港予定の国際空港を建設中である。
[編集] 産業
18-19世紀にブラジルや南アフリカでダイヤモンド鉱脈が発見されるまで、インドは唯一のダイヤモンドの産出国であった。特にハイデラバード近郊のゴルコンダは、非常に優良なダイヤモンド鉱山として知られ、この地域に成立した歴代王朝に巨大な富をもたらしてきた。ちなみに、イギリス女王エリザベス2世の王冠に輝く巨大なダイヤモンドは、ハイデラバード産のものである。
ハイデラバードはまた、真珠や絹織物の産地・集積地としても有名である。今なお、市内のいたるところで、大小さまざまの宝石商、サリー商を見ることができる。
近年は、市北西郊外の広大な敷地に、経済特区ハイテク・シティーを建設し、インド国内(インフォシス・テクノロジー、ウィプロ・テクノロジー、サッティヤム等)だけでなく、世界中(マイクロソフト、グーグルなど)から巨大IT企業の誘致に成功している。
[編集] 史跡・名物
[編集] ゴルコンダ要塞
前王朝により1143年に建てられた泥の砦は、その後クトゥブ・シャーヒー王国のイブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーおよびその息子ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーの治世62年間に要塞へと強化、拡充された。要塞は、高さは122mの孤立した花崗岩の丘の上に、今も壮麗にそびえ建っている。要塞外郭は丘に沿うように、そして要塞を囲む外壁は、いびつな菱形状に設計されている。頑丈な銃眼を持つ最外壁は、外周囲7km近くにも及び、さらに周囲に深い堀を持ち、高さが15-18mもある87の半円形稜堡(ブルジ)、8つの巨大な門を有する。
陶器製パイプを利用した給水システムが、要塞内に存在したことが明らかになっている。このシステムにより飲料水は勿論のこと、いくつかの噴水も要塞内に作られていた。さらに、この要塞はユニークな通信システムを持っている。正面玄関のアーチの下で手を打つと、アーチの反響効果により30-40m以上離れたバーラー・ヒサールや、別の地点へその音が明瞭に伝わるのである。この通信システムは現在も機能するため、正面玄関は観光客が立ち止まり、手を打つ格好の場所となっている。また、王の謁見バルコニーには、特殊な視覚効果が施されていたと伝えられている。この仕掛けにより、別の場所にいる王の幻影を謁見バルコニー上に映し出し、万が一の刺客の攻撃から王を守ったとか。
ゴルコンダ要塞は、巨大な花崗岩の3重壁で取り囲まれている。最外壁は小砦を一つ持ち、小丘上を取り囲む設計である。2番目の壁は丘の麓に沿って、3番目は巨石群を取りこんで、丘の斜面に建設されている。外壁の厚さは5-10mで、巨大な花崗岩ブロック製である。北東の角には、ぺトラ・ブルジ(要塞の一角から突き出ていて、その両側の長大な外壁を一望できる「大腹稜堡」)があり、有名なファテヒー・ラーフバル砲が据え付けられている。北東にある別の稜堡は、9つの丸突起がある波打った面を持っているので、「9つの丸突起の稜堡」と呼ばれている。他にも2つの稜堡が有名である。一つは要塞の南方にあるムーサー・ブルジである。この稜堡は、当時ムガル帝国王子だったアウラングゼーブ率いる1656年のムガル帝国第二次遠征軍を防ぐために、アブドゥル・クトゥブ・シャーの将軍であったムーサー・カーンによって設計され、建築家のダーマチャールによって増設されたものである。もう一つは、今日もはや存在しないカーガズィー(紙)・ブルジである。その呼び名の由来は、1687年のムガル帝国第三次遠征軍の攻城砲撃で集中的被害を受けた部分を、クトゥブ・シャーヒー王国守備軍の絵描きと職人達が、一夜で紙と布の完璧なハッタリ稜堡として作り上げたことによる。残念ながら、その一日後にゴルコンダ要塞は陥落した。これらの稜堡の記述は、テルグー語の碑文や、王達の事業記録中にも見ることができる。
今日、遺構となったゴルコンダ要塞は、乾燥した平原に朽ちた壮麗さを残している。その壮大な砦跡は、近代化し続けるハイデラバードの過去を偲ぶ背景として誇り高くそびえている。
[編集] チャール・ミナール
4つの光塔をもつ大建造物は、クトゥブ・シャーヒー王国の伝説的最高傑作である。チャール・ミナールは、後のニザーム藩王国発行のハイデラバード・ルピー貨裏面にも刻印されていたし、今なおハイデラバードを象徴する最も有名な建造物である。
1591年にムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーによって建設された。基盤の一辺は20m、4つのアーチは幅11m、高さ20mである。4階建ての光塔は、四面アーチ構造建造物の屋上から20mの高さにまでそびえている。4つ(チャール)の光塔(ミナール)があるところから、チャール・ミナールと名づけられた。屋上の西区画にはモスクがあり、クトゥブ・シャーヒー王国の職人が建てた中でも極めつけの美しさである。金曜礼拝者が宿泊するスペースの正面には、祈りのための場所が45ある。このスペース東側には、独特のアーチデザインを持つ愛らしいベランダがある。4つのアーチ門上にある時計は1889年に加えられた。チャール・ミナールの南西基部には、ラクシュミー女神を奉った小さなヒンドゥー寺院があるが、これは最近になって付け加えられたものである。
チャール・ミナール建設の意義と妥当性は、今なお終わることのない論争テーマとなっている。ある説によると、上層階は学校であったとか、あるいはくみ上げ式の溜池であったとか、当時流行した疫病除けであるとか、妃への贈り物、ゴルコンダ要塞と秘密のトンネルで結ばれた脱出路、あるいはただの門構えである等さまざま学説や流説がある。真実がどうあれ、今日「チャール・ミナール」という単語は、ハイデラバードのかつての魅力そして美と同義語であり、螺旋階段を登る観光客に、クトゥブ・シャー家の威厳を知らしめる建造物である。夜間はライトアップされている。
チャール・ミナールのすぐ南東には、壮麗な外観を持つニザーミヤー・ユーナーニー病院がある。西へ凡そ50mほど行くとラール・バーザール(Laad Bazar लाड़ बाज़ार)、さらに進むとニザーム藩王国のズィラーウ・カーナー(閲兵場)入り口がある。現在、閲兵場は巨大な商業地域へと様変わりしている。
[編集] メッカ・マスジド
インドでも最大級、ハイデラバードでは最大のモスクであり、一度に1000人もの信者を収容できる。チャール・ミナールの南西91mにある。その名前は、メッカのグランド・モスクに由来し、そのモスクの様式を踏襲している。大広間は67x54m、高さは23mである。広間の3面はそれぞれ5つアーチを持ち、この計15のアーチが天井を支えている。西側は、ムスリムで最も神聖視されているカーバ神殿への祈りの方角であるため高い壁で塞がれている。両端には、それぞれ花崗岩の一枚岩から作られた柱状の8角堂があり、その上にはドーム屋根を持つアーチ状につらなった回廊がある。
メッカ・マスジドの建設は、クトゥブ・シャーヒー王国のスルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャーの指令により、ミール・ファイズラー・バイグおよびチョウドリー・シャーの指揮下で始められた。8000人近くの石工と労働者が建設に携わったと伝えられる。その後も、建設事業はクトゥブ・シャーヒー王国のアブドゥル・クトゥブ・シャーおよびアブドゥル・ハサン・ターナー・シャーによって続けられた。そして、建設開始から77年後の1694年に、ムガル帝国アウラングゼーブ帝がメッカ・マスジドを完成させた。
このモスクの北東隅にある黒色の石製ベンチ(テーブル?)に腰かけた者は、必ず再びハイデラバードに戻ってくるという伝説がある。
[編集] サーラール・ジャング博物館
目利きの骨董品収集家として世界に知られたサーラール・ジャング三世(ニザーム藩王国宰相)にちなんで名づけられた。彼は祖父、父からも幾ばくかの品を引き継いだが、博物館の展示品のほとんどは、サーラール・ジャング三世が収集したものである。彼は、スポーツや芸術を熱心に推奨した宰相で、1949年に独身のまま没した。また、単なる骨董品の収集家ではなく、詩人や作家、美術家の後援者でもあったため、彼の死後に膨大な量の値の付けられないほど高価な収集品が残された。これらが、1968年に現在の場所に移されて博物館となった。
コレクションは、43,000点の美術品、50,000点の書籍という膨大なものである。稀に、これは美術骨董品なのか?と疑いたくなるような展示品もあるが、全展示室通じて内容的にも非常に充実しており1日居ても飽きないほどである。「久月の日本人形」といった日本の工芸品も展示されている。近年(2006年)増築され、これに伴って日本の展示品は、新しく広く美しい展示室に移された。定時には、博物館一階広場に展示されているニザーム時代の古い仕掛け時計が時を告げる。これは、この博物館の名物になっており、定時には入館者の多くが広場に集まって、その様子を楽しんでいる。
館内撮影は禁止。金曜日、祝日が休館日。
[編集] ハイデラバーディー・ビリアーニー
ハイデラバードの名物料理と言えば、州内外を問わず誰に聞いても「ビリアーニー」という答えが返ってくるほどの名物料理。特に、マトン・ビリアーニーが有名。これは、マトンとスパイスの炊き込みご飯とでも言うもので、非常に美味。言い伝えによると、その昔ニザーム家には、糖尿病を患っていたために、大好物のマトン・ビリアーニーを、一日にスプーン2杯だけ食することを侍従医から許されていた藩王がいた。彼は、乗せ固められる最大量のビリアーニーをスプーンに2杯だけ懸命に盛り、とても藩王とは思えないような作法で無我夢中で食したとか。ハイデラバードでは、一度は食したい味ながら、胃への負担はかなりのもの。食べ過ぎには注意したい。マトンの代わりに鶏肉を使ったチキン・ビリアーニーもある。