ムガル帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムガル帝国は、1526年からインド北部を支配し、1858年まで存続したイスラム王朝。中央アジア出身で、ティムール朝の王族を父、チンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするモグーリスタン・ハン家の王女を母とするテュルク系の遊牧貴族バーブルが、現在のアフガニスタンからインドに移って建国した。王朝名のムガル(مغل Mughal)はペルシア語のムグール(モゴール ; مغول Mughūl)の転訛で、モンゴル人を意味し、ムガール帝国とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名。
[編集] 歴史
ティムールの五代後の直系子孫であるバーブルは、中央アジアのトランスオクシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していたが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年にパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を破り、デリー、アーグラーを制圧してインドにおけるティムール王朝としてムガル朝を建設した。
バーブルの死後、後を継いだフマーユーンはグジャラートに勢力を広げるが、ロディー朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。フマーユーンはシンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年デリーに返り咲き、ムガル朝を再建した。
ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展したのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだアクバルの治世である。アクバルは東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定し、ムガル帝国はアクバルの活躍した16世紀後半からジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブに至る17世紀にかけて最盛期を迎える。
しかし、強勢を誇ったムガル帝国も18世紀に入ると貴族階層の没落、繁栄を支えた軍事構造の崩壊が起こり、マラータ族、シク教徒、ラージプート族などが離反し、ムガル帝国を構成していたニザーム、ベンガル、アウドなども独立し、又、経済的にも成長したインド商人やヨーロッパ諸国の東インド会社の前に侵食されて急速に解体していった。1739年にはイランにアフシャール朝を開いたナーディル・シャーによってデリーを占領され、甚大な打撃を蒙る。19世紀に入るともはやデリー周辺を支配するのみの小勢力となっていたが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(セポイの乱)が起こると82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍のシンボルとして担ぎだされるほどの余光を保っていた。1858年、大反乱を鎮圧したイギリスはバハードゥル・シャーを裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。これによりティムール朝から数えて500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は350年にわたるインドにおける歴史を閉じた。
[編集] 歴代皇帝
- バーブル(1526年-1530年)
- フマーユーン(1530-1540)復位(1555年-1556)
- アクバル(1556年-1605年)
- ジャハーンギール(1605-1627年)
- シャー・ジャハーン1世(1628年-1658年)
- アウラングゼーブ・アーラムギル(1658年-1707年)
- バハードゥル・シャー1世(1707年-1712年)
- ジャハーンダール・シャー(1712年-1713年)
- ファッルフシヤル(1713年-1719年)
- ラフィー・ウッダラジャート(1719年)
- ラフィー・ウッダウラ(1719年)
- ムハンマド・シャー(1719年-1748年)
- アフマド・シャー(1748年-1754年)
- アーラムギール2世(1754年-1759年)
- シャー・アーラム2世(1759年-1806年)
- アクバル・シャー2世(1806年-1837年)
- バハードゥル・シャー2世(1837年-1858年)