ドラヴィダ人
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ドラヴィダ人(Dravidian)は、アーリア人の侵入以前にインド北部を支配していたと考えられる民族群。インダス文明はドラヴィダ人によるものだとされているが、これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語がドラヴィダ語族の言語である可能性が高いためである。
ドラヴィダ人はアーリア人とは人種的条件が大きく異なり、ネグロイドに属するとされるが、その起源は西アジアの地中海周辺地域からメソポタミア、イラン高原を経て移住して来た集団とされ、アフリカ中南部に起源を持つ他のネグロイドと直接的な関係はない。
現在では主に、南インド四州すなわちタミル・ナードゥ州、ケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州を中心として居住し、マレーシア、シンガポール、セーシェル、マダガスカルなどにも居住している。
[編集] 定義の多重性
ドラヴィダ人という呼称について考える場合、言語学での分類に用いられるドラヴィダ語族の概念を抜きにしては考えられない。ドラヴィダ人の定義としては、ドラヴィダ語族に属するタミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語、トゥル語、コータ語などの言語を母語として使用する人々、という言語学的側面が第一に挙げられると考えられる。
次に、インダス文明の担い手であり、アーリア人よりも早くからインドに居住して、徐々にアーリア人によりインドの南方へと追いやられて行きながらもチョーラ朝などの下で隆盛し、イスラム教勢力の侵入を食い止めた人々、という歴史的・政治的な側面が挙げられる。
また、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低い、という人類学的な側面が挙げられる。
さらに、サンスクリット文学が入る前から存在した独自のタミル文学を保持し、ムルガン神信仰などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活などでも独自のものを持っている、という文化的な側面が挙げられる。
このような様々な側面が複雑に重なり合い繋がっているのが、ドラヴィダ人という概念である。また、タミル人という概念があり、主にタミル・ナードゥ州出身でタミル語を母語としその文化を担う人々を指すが、タミル(தமிழ்;Tamil)という語はドラヴィダ(திராவிட;サンスクリット語 द्रविड, द्रमिल, द्राविड;Dravida)という語と語源が関係している可能性が高い。このことから、タミル人をドラヴィダ人の代表、あるいはドラヴィダ人そのものと考える傾向が、タミル・ナードゥ州を中心に展開している政治運動であるドラヴィダ運動などにおいて、存在している。
[編集] 略史
- 紀元前3500年頃、イラン高原からインド北西部に移住する。 さらに東、南へと広がって行く。
- 紀元前2600年頃、インダス川流域(現在のパキスタン)に、インダス文明を始める。複数の都市よりなる文明である。
- 紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。砂漠化または気候の変化が理由だと言われる。
- 紀元前1500年頃から、アーリア人のインド北西部への移住が始まる。これに伴いドラヴィダ人はインドを南下する。
- 紀元前1300年頃から、アーリア人はドラヴィダ系民族を奴隷化し始める。階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミンと、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたと思われる。
- 紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。アーリア人の認識は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。
- 現在では、ドラヴィダ系の人々は南インドを中心に居住している。